forever young

’89 TAKURO YOSHIDA in BIG EGG現在予約受付中の75年のつま恋のライブDVDを買おうかなとアマゾンに行ったのだけれども、それではなくてつい、89年のライブを買ってしまった。東京ドームで演ったやつで、確かぼくは見に行ったはずだ。
昔この人は「フォーク界のプリンス」って呼ばれていたんだよ。昔の録音を聞くと判るけれども、確かにそういう自信がパワーになって歌唱に昇華している気がする。


篠島オールナイトっていうイベントがあってね、それ以前、それ以降って分かれるような気もするんだ。確かにその詩とかメロディーは当時の一部の若者を引きつけたし、僕もその一人だったと思う。それは、それなりにちゃんとしている人にとっては同世代の自分の代弁者のように感じただろうし、何をやっても駄目だなあっていうようなタイプの人間にとっては憧れでもあったのだろうと思う。僕は当然後者で、それは今も変わってないような気もするけれども、ともあれそういう人たちがおじさん、おばさんになって2005年。何となくだけれども「ちゃんとしている」人たちの方にもどこかに「足りんものがあったけん」っていうブブンを持っている人が多かったのかなっていう気がするのは気のせいなのかな。インターネットのおかげでそういう知り合いも増えたのよ。篠島以降ももちろん自信に満ちた歌唱を披露しているけれども、何かが少しずつ変わってきていたような気がするんだ。時代かもしれないし、別の面で彼が確固たる力を持ったという事なのかもしれない。
最近のこの人が作った歌を聴くと、いいおじさんになっているなって思う。年齢ならではの歌を作って歌っているし、聞く側もそれなりに落ち着いた年齢になっているんだし。ただ、多分本人も聞く側も、自信に満ちて若かった日の残像があるので、ある部分忸怩たる思いもあるのではないかとは思う。でも正直に「今」をクリエイトして来たのなら、無意味にアジったりするような作品は出現しないだろうな。若さにまかせて自信たっぷりに表現してきた時代は終わったんだ。「ファン」たちはそれでも、こんな現代という時代に対するかつての“リーダー”なりの鉄槌を響かせてほしいと願うのだろう。でも吉田拓郎はそういうタイプのクリエイターではないのだという気がする。そんな認識が外れてくれる事を願う事をぼく自身が捨てきれないということはあるにしても。もっと私小説的だし、もっと音楽的なのだと思う。
まあこの2005年でもメジャーで歌っているという事自体がすごいといえばすごいやね。音楽的にしっかりしていなければこんなに長く現役ではいられないんじゃないかな。その辺は「人知れずの努力」みたいなものもあったのかもしれない。何となくだけどさ、もちろん素質はきちんとあったにしろ天才肌というタイプの人ではないような気がするんだよな。
ぼくは「サマルカンド・ブルー」っていうアルバムが好き。80年代にいろんな意味で迷った末にえいやって作ったような印象があるの。それなりに素質があって、努力も怠らなかった人がそういう状況で作ったモノが悪い訳がない。今でもよく聞くんだ。
吉田拓郎という歌手は様々なタイプの歌を歌っている。日本の歌のスタンダードのひとつになりそうな歌を歌ったかと思うと、かなり難解な詞に曲を付ける。そうかと思うと一見軽薄そうな曲をそれなりに軽く歌っちゃう。個人的に好きな曲はあるけれど、代表曲はと問われると困る。あの曲のここの詞が、なんてすっと出てこない。あれもこれも少しずつ良くて、少しずつ何かを言ってみたくはなる(その辺が「お前にとって拓郎はそれほど大切じゃあないのさ」なんて言われてしまう所以なんだろうな)。若いときには若さ、力を持てば自信あるいはエゴ、年を取れば諦め、そういうものが正直に歌唱に出てしまう所が、あまり好きになれない人が拒絶する部分なのだろうし逆に好きな人が好む部分なのではないかと思う。
ただね、言ってみたいのは「まあ、こんなもんだろう」とか「若い頃の財産で食う」っていうのは似合わないんじゃないのってこと。創作意欲が薄れたのなら消えていてください。中途半端にテレビなんかで稼ぐからタレントみたいになっちゃう。80年代みたいにしっかり真摯に音楽を作る意欲がわいてきたのならまた素晴らしい歌声を聴かせてくださいよ。
…というのは理想。それなりにじたばたと身過ぎ世過ぎをしながら今作れる歌を作って行く姿勢に共感したりもするんだよな。ただ聞き手も歌い手もそれに甘えてはいないかとも言ってみたくなったり…。
というわけで、えーと、時間がなくなってきたのでまた機会があったら書くよ。では。


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