腹膜偽粘液腫の根治を目指した手術をしてから、先月末で丸4年。4年前の今日のブログを見てみると(術後16日目)、退院の話が浮上しつつ嘔吐しつつ膿出てマス、みたいな。
ずいぶん昔のような、そうでないような。そんな入院中はそれなりに大変だったけれど、退院後の数ヶ月もヘロヘロな割によく頑張ったなと、自分を褒めてやりたいっす。
病気判明時からその後、たくさんの人たちに支えていただいたわけだが、最初の1〜2年は特にK山先生には大変お世話になった。
K山先生って、名前隠して何よ?って、亀山先生のことだけれど。
昨年、そのK山先生が銀座医院を去られ、同じく私を診てくださる二見先生はおられるものの、悲しいような不安なような、しばらくはそんな気分だった。主治医が変わるって、ヒ〜ってなるよね。
でも、むしろこれは良いことにつながるに違いない!と思うことにしたので、、、本当に良い方向に行ったかも。
なんと某日、K山先生にお電話でいろいろとお話しできたのである。先生もお元気そうで何よりで、診察室ではゆっくり聞けないことなど、ここぞとばかりいろいろ伺って長電話になってしまった。
私が初めてK先生のところに行った日のことを、先生はよくよく覚えていらっしゃって、その記憶力にはびっくりした。
「粘液状の腹水の場合、考えられるのは3つあって、ひとつは胃の印環細胞がん、もうひとつは卵巣がん、それから腹膜偽粘液腫なんだけれど、腹膜偽粘液腫は珍しいからね、胃か卵巣かと思ったんだ。」
そうでしたね〜。
「pomさんは軽い場合の治療はどうなるのかって聞いたよね? だから、外科手術って言ったんだよ。でも実のところ、私は、手術はもう無理だと思ったんだ。もう何もできないってね。」
そうだったんですね〜。なのに私はその時、手術しなければいけないほど悪いのかとショックを受けたのである。手術できるくらいならマシなのだ、とは思いもよらない、知識ゼロの患者ビギナーであった。
「でもすぐに大学病院への紹介状書いたけど、、、あれから何年だっけ、4年か、結局pomさんが自分で手術する先生を探してきたんだからなあ。」
いやいや、最近はネットが普及してますんで。で、患者支援の会を見つけてそこでセカンドオピニオンを勧められたのです〜。
「その後、よく勉強するようになったね。最初はひどかったからなあ。だいたい体重聞いても体重計に乗ってない、だったらベルトの穴の場所が変わってないか聞いても『ベルトしないからわかりません』って、診断のしようがなかったよね。笑」
スミマセン。。。今はちゃんと体重量ってます!
「最初にpomさんが来た日、遅い時間に来たんだよ。」
そうでした、そうでした。
「コンビニかなんかなら閉店間際でも用が足りるだろうけど、病院はいろいろ検査も必要でしょう? 遅い時間だと検査が後日になっちゃうからね。」
自分感覚としては、病気と診断されるのが怖くて明日明日と延ばしていたところを、他人に今すぐ行けと言われて頑張って行ったので、もし翌朝にしようと思ったら、もっと先延ばししちゃったかもしれないし、第一、翌朝はK山先生の休診日だから違う先生で、これまた違った展開だったかもしれず、これはこれで良かったってことにしておこ〜よ、みたいな長い言い訳をしつつ、このように、いろいろと「患者たる者の心得」をこれまでK山先生から学んだのである。
「そうそう、リンパ球のことだけど、やはり脾臓を摘出しているとそうなるようだね。」
ふむふむ。で、脾臓摘出してるとなんか違うんですかね。
「脾臓とか虫垂はリンパ性器官だからね、肺炎とかの感染症がね。ワクチンは5年しか有効じゃないけど。」
そんなこんなな他にもいろいろお伺いしたり、健康の秘訣というか先生ご自身が実践されていることを教えていただいたり〜(私にはムリ!だけど、片鱗は真似できそう)、もう大丈夫だねと励ましていただいたり、今でも頼りにしたい先生なのだった。
んで。あのう、、、「何かあったらご連絡させていただきたいのですが〜〜」とこちらが言うと、
「構いませんよ。」
ヒュ〜〜♪
・・・自分に合った医師に巡り会えるというのは、お抱え医師をシェアしているみたいな気がする。なにやらリッチではないか!
地域で決められた医師にしか診察してもらえず、他の医師の診察NGな国もあるなかで、日本は自由に医師を選べるので、自分に合う医師に巡り会えるチャンスがしっかりある。そして健康保険制度があって、比較的気軽に病院を受診できる。すばらしいと思う。
毒遊
2015年07月31日(金)15:36
私も人の死って、肉体が失われることではなく、その人のことを想ってくれる人がいなくなった時点なんだって思います。
共に戦った方々は、まだ私の中で生きているよ。
pom
2015年08月02日(日)04:19
毒遊さん、NEWさんのブログへのコメント、いつも拝見していました!
お返事遅くなりましてすみません。。。
死そのものは、想う人がいなくなった時点、、、まさしくそうかもしれませんね。
思い出の中には、生きてますもんね。
私はちょっと変な次元のことも考えていて、死はただの通過点で、その先もあるのではないかと。
この世に想う人がいるうちは、人間の格好をしていて人なんだけれど、
誰も想う人がいなくなったとき、何か違う、物質ならぬ物質となるのかなと。
なんか、そんなことを最近、思ったりします。