退院後の2週間

これは7月20日に、岸和田の病院で当時を思い出しながら記したものです。

仕事はゴールデンウィーク明けから行くことにしていたので、ひたすら家で病気についてネット検索をしていた。

腹腔鏡で粘液を取りつつ、20年以上生存している患者さんがいたりして、私もそのような形でなんとか生きられないかな、などと考えていた。

とにかくその頃の私は暗かった。お腹の腸の具合も変だし、外出はあまりしないで、ぼーっとしながらパソコンの前に座っていた。夫が後で話してくれたが、とにかく、声もかけられないくらい私は放心状態だったようである。

そのようななか、ネットで腹膜偽粘液腫患者支援の会を知る。それで入会することにした。

すぐに連絡が来て、米村豊先生のセカンドオピニオンを受けることを勧められた。まだ手術したばかりでセカンドなどと思ったが、治療の選択肢は多いほうが良いからと、プッシュされたのだった。

支援の会の代表である藤井さんは、息子さんをこの病気で亡くされていた。その悲しみから目を背けることなく、同じ病気の患者さんたちをパワフルにバックアップしているのだった。

あそこで強力にプッシュしてもらわなかったら、私はどうなっていただろうかと思う。うだうだする間もなく、私はセカンドオピニオンを受ける準備を始めた。もしかしたら、このあり得ない状態から脱出できるかも。。。はるか先から希望の灯火がほんのりと私を照らしているような気がしてきた。

大学病院を退院

これは実際には7月20日に岸和田の病院で、当時を思い出しながら記しました。

術後3日目くらいから俄然、回復してきて気分が良くなってきた。そうなると、自分が髪にブラシをかけてないことに気付いたり、ベッド周りを快適空間に整えたりし始めた。病室には相部屋でもLANがついていてPCを持ち込んでいたので、ネットサーフィンなどしたり、持ってきてもらった漫画を読んだりして時を過ごした。

 (他の人の入院ブログを拝見すると、皆さん、窓の風景を撮っているので、真似して撮ってみた。程よく田舎で緑が見え、病室が12階だったので空も広く、気持ち良かった。)

また、とにかく歩いた方がよいとのことで、結構頑張って廊下をウロウロしたと思う。

夫や両親、弟夫婦も良く見舞いに来てくれて気が紛れた。とくに義妹がよく来てくれ、足りないものを買って来てくれたりもして、とても助かった。

そんな日を送り、ついに退院となった。その日は父が来てくれた。父とタクシーで帰り、その日は実家に一泊した。

転科告知

この記述は、7月12日、岸和田の病院で当時を思い出しながら書いたものです。

夕方ごろだったろうか、ぶらりと主治医がやって来た。こちらはどうも体をじっとしていられないというか、体がだるくてだるくて、うまい落ち着きどころがなく、ベッドの上で横座りにぼうっとしているところだった。

「聞いた?」
「はい。。。」
先生は家族から私が病名などは聞いたこととして、次のステップを話し出した。虫垂原発と考えられるから、婦人科から外科に転科して、今後の治療は外科の先生が行うことになると。

先生は外科の先生は胸にポートを埋め込み、そこから抗がん剤治療をしたいと言っていたという話もされた。私は足の小指にできたマメをいじりながら、先生の話をぼうっと聞いていた。

恐怖のICU

この記述は岸和田の病院で当時を思い出しながら、実際には7月12日に記しました。

ICUには術後24時間入ると聞かされていたが、こんなに長く辛く発狂しそうな24時間は過去に経験がない。

自分自身は背中に硬膜外麻酔、首や左手首から各種点滴の針が固定され、お腹3か所からは排出物のドレーンが出ているし、尿も導尿。胸には心電図、指先は酸素を測る計器、鼻の奥にはチューブが入っているし、酸素マスクもつけていた。そして脚には弾性ストッキングの上からご丁寧にフットポンプが巻き付けられ、身動きなぞままならない状態である。

・・・腰が痛い。看護師さんにやや体を横向きにしてもらったりするのだが、傷の痛みなんかより、腰が痛くてたまらない。

絶飲食で口の中も気持ち悪く、うがいを1度させてもらった。

部屋はだだっ広いことだけがわかる。自分は一番端のベッドだというのもわかった。しかし眼鏡を持ち込ませてもらえなかったため、何も見えず、恐怖が募る。隣の60代の男性はICUシンドロームになっており、時々、看護師に悪態をついた。私は、なぜかその男性が「◯◯さん、起き上がっちゃダメでしょ」と言われるたびに、私の顔を覗いているのではないかという錯覚にとらわれた。

なぜ男性が60代と知っているかというと、看護師さんが何度となく名前や年齢、ここはどこかを確認するから。

でも、あの環境ではおかしくなって当たり前だと思う。時間もわからず、何時かと聞くと、さっき聞いた時からほんの数分しか経っていなかったりする。単調で、時間の流れも感じない空間は、1秒がとても長い。もっと音楽をかけたり、いろいろなくふうをしてほしい。

とにかく辛く、でも24時間は出ることができないなか、私は、腹膜偽粘液腫について知っていることを何度も何度も反芻しつつ、出られるのを待った。

手術から目覚める

この記述は当時を思い出しながら、岸和田の病院で書いたものです。

起こされた時はもうICUだったかどうか。。。記憶は定かでない。しかし、ICUのベッドで浴衣に着替えさせてもらったのは覚えている。

程なくして、家族が面会にやってきた。手術は何時間コースだったのだろう。それによって、良性か、はたまた悪性・境界悪性かがわかる。
「いま何時?」
夫が1時と答えた。

「がんじゃなかったんだね!」

すると、夫はちょっと困った顔をしたので、「どうだったか教えて」と聞いた。夫は躊躇しながら言った。

「腹膜偽粘液腫だって。」

そうきたか。。。入院前まで、ひたすら卵巣がんと腹水のことをネットで調べていたので、その病名も知っていた。でもまさか、自分がそれに当てはまってしまったなんて。

夫があとから私に教えてくれた私のその時のリアクションは、唯一自由になる右手をおでこに乗せ、「ああ、それか!」と言ったそうである。

婦人科手術の朝

この記事は7月11日に、岸和田の病院で当時を思い出しながら記しました

朝、病室に婦人科の主治医がぞろぞろ引き連れてやって来る。手術治療はチーム医療だとは仰っていたし、大学病院なのだからそうなるのだろうが、些か驚いた顔をすると、主治医が「白い巨塔でーす」と言うので、一応ここは笑うポイントだしと私もゾロゾロきた先生方も声を出して笑う。これが私には良かったようで、無理に?笑ったお陰で緊張がほぐれる。

家族は、夫、父、弟夫婦が朝からきてくれた。術着に着替え、車椅子に乗って手術室に向かう時には、気持ちは落ち着いていた。なるようにしかならない。
今日には結果がわかるのだ。

 病室前の廊下にて。車椅子を押してもらいながら、自分自身が左手に入れた点滴を下げた棒を押して行く。

東海大学病院に入院

この記事は実際には7月11日に、岸和田の病院で思い出しながら書きました。

朝、義妹が車で迎えに来てくれた。美味しいランチでもしてから入院するため、早めに来てもらったのだ。

伊勢原のイタリアンで、二人でランチ。窓の外は天気も良く、これから入院するなんて嘘のような気分だった。

病院に着き、しばらく義妹がいてくれた間に、入院手続き、明日の手術のための麻酔科受診、ついでに自分でおへそのお掃除や剃毛もしたりする。
その後、下剤を飲む。量は500mlで、味はそんなに不味くなかった。眠れそうにないけれど、どうせ入院なんて寝たい放題なのだろうと、気にしないことにした。

家族会議

この記事は、実際には7月20日に岸和田の病院で思い出しながら記しました。

この日、手術のことを両親に話すため実家に行く。すでにおおよその話はしていた弟夫婦にも来てもらった。

現在、医師から聞いていること、手術の日程などを、淡々と話した。年老いた両親をむやみに心配させたくなかった。

両親は動揺している風でもなく、母は黙って聞いていた。父は、
「俺なんかあっちこっち切っているけどまだ生きているぞ。だいたい、うちにはガンになった人間なんかいないんだから、そういう家系じゃないし大丈夫だよ。」と言ったので、一瞬、皆、固まってしまった。

実は、父は7〜8年前に初期の大腸がんの手術をしていたのである。私たちは本人に告知しないまま、今まで来たのだった。

とりあえず、手術する病院は実家から近いので、どこか気軽さもあり、入院中はいろいろ家族にヘルプしてもらうということで家族会議は終わった。

その後、弟にちょっと前からお願いしていた、私のスナップ写真を撮ってもらう。万が一のことを考えて、抗がん剤でやつれた顔の写真が遺影になっては堪らないので、地毛フサフサで血色の良い、にこやかな写真を撮っておこうと思ったのだ。

何枚か撮ったのだけど、自分のブスさ加減を棚に上げて、どれもまったく気に入らなかった。これじゃ死ねんわ。

婦人科外来3回め

この記事は、実際には2011年6月14日に記しました。

どうせ貯血に来院するなら、もう一度、その日に予約を入れましょうということで、外来診療。手術内容について、主治医と入院前の最後の確認をした。この日があって良かったと思う。これまで、気が早い私は何度も「現時点でわかる状況は?」と伺ってばかりいた。その度に先生は不機嫌に「お腹を開けてみなければわからないです」と繰り返した。頭では理解しても、手術するまで自分の病気の内容がわからないという事実がもどかしく、不安感を増幅させた。

先生が「悪いようにはしないから」とおっしゃる。ちょっとおかしかった。そしてお願いをした。

「今後のQOLとか考えるんです、リンパ浮腫にならないためのケアが自分にとって難しいと思うから、もし、リンパ節を取るかどうか悩むことが起きたら、取らないでほしいんです。」

リンパ浮腫にならないためにはマッサージが欠かせないらしいし、正座もしないほうが良いなど、私はネット上で知識を得ていた。毎日疲れてすぐ寝てしまうし、正座ができないなら趣味の茶道も無理。なるべくなら取りたくない。

先生は「う、ん」と返事をされ、紙に何かを書き留めた。その「う、ん」になぜか私は安堵し、手術への不安が和らぐのを感じた。

(2011年11月24日追記:このときの外来診療予約表を見ると、この話は、どうやら4月8日のことのようだ。4月1日は胃の内視鏡の結果をもとに、再度、手術内容を確認したのだと思う。ということは、婦人科外来は手術前に4回行ったことになる。)

20数年ぶりの胃カメラ

この記事は、実際には2011年6月14日に記しました。

28日に消化器内科初診があり(いちいち大学病院って面倒だ)、この日、胃カメラを受ける。受けるのは20数年ぶりだ。「んがんが」してしまって苦しかったのを覚えている。でもそんなことは今はどうでもよくて、悪い結果でないのを祈るのみ。

「あー、潰瘍の痕がありますね。」

20年以上前のものでも、痕が残っているのだろうか。

「あとはきれいですよ。」

問題なしとのお言葉。よだれをだらだら流しながら、検査は終わった。起き上がって、うまく履けない靴にあたふたしながら、先生たちに何度も「ありがとうございます」とぺこぺこお辞儀しながら、部屋を出た。