岸和田徳洲会病院に入院

24日から大阪に来ている。月曜手術にしたため、前日に受診する麻酔科が金曜日になってしまったからだ。
2日ほど親戚の家に厄介になり、甥が麻酔科も今日の入院も付き添ってくれた。
とても助かる。

ベッドで下剤を飲まなければと思いつつ、ゴロンとしていると、なんと米村先生が。今日は日曜なのに。厚生労働科学研究費補助金による難治性疾患克服研究事業の臨床研究について説明を受けた。もちろん、同意。早くこの病気の標準治療が確立してほしいし、また、将来的に特定の遺伝子が発見されたりしたら嬉しい。

明日の手術についての不安は一切なし。それより術後に入るICUのほうが不安。あそこは時間の感覚がなくなるし、腰痛いし。ラジオ、腰枕を持って来たので、使わせてほしいなあ。

もう消灯時間。。。眠くないので、ワンセグで大阪放送でも見ようかなっと。

 

あれから1年以上経った2012年9月追記:手術日のこと、ICUのことなどを思い出しながら振り返ってみました。
手術とICUの数日(その1)
手術とICUの数日(その2の前に)
手術とICUの数日(その2)
手術とICUの数日(その3)
もっと、本当は緊張したり痛く苦しかったはずですが、人間というものは、嫌だった事を結構忘れられるようです。。。

点滴の針

今ごろになって、東海大学病院のスタッフは、血管に針を刺すのが総じて上手いのではと思ったりして。

うれしい電話フォロー

岸和田の病院に日帰りで行ってきた翌日、なんと銀座医院の亀山先生から電話を頂戴した。普通、病院の先生がフォローの電話なぞくれるだろうか? 感激してしまった。

実は5月13日に、ちょっと背中が痛いというのが口実で、銀座医院を受診した。大学病院の先生とセカンドオピニオンの件でうまくいかず、不安だったのだ。紹介状を期日までに書いてくれるか心配だったし、また、セカンドを受けた結果、地元近辺の病院で治療を受けたいと思ったところで、大学病院の治療方針は受け入れがたく、ほかに良い病院があれば教えていただきたいと思っていた。

そのとき亀山先生は、医者は職人が多い(愛想は悪い)、でも腕はいいかもしれないよ、とおっしゃりながらも、いろいろアドバイスしてくださった。そして気落ちする私に、「医療の進歩を期待するのもいいよ」ともおっしゃった。抗がん剤治療などを受けなければならない患者にとっては、希望を持てることが重要だし生きる気力となる。それに本当にがんばって生き続けていけば、治る方法が開発される可能性だってあるわけだ。

その亀山先生からのお電話である。ちゃんとセカンドオピニオンが受けられたか、心配してくださっていた。それで、大阪で手術することになったことまでをお話しした。私もその後、自分がどういう診断や治療を受けるかをきちんと話して、先生の今後の診療に役立てていただきたいと思っていた。

先生はさらにいろいろアドバイスしてくださってエールを送ってくれた。さんきゅ〜、先生。手術して戻ってきたら、調子が悪いときにはいつもお世話になりたい。

これまで特に「かかりつけ医」はいなかったし、それをなんとも思っていなかったが、今、「かかりつけ医」の重要性をつくづく感じている。自分の病歴をわかってくれているのは安心だ。もちろんわかってくれているだけでなく、見立てがよく、さらに熱い思いのドクター。そんな先生が身近にいてくれるのは、なにより心強いものだ。

岸和田徳洲会病院に来た

早起きして飛行機利用で岸和田徳洲会病院へ。手術日の決定と、術前の検査のためだ。外科の待合室は人でいっぱい。おばあさんたちの泉州弁を聞きながら、うつらうつらしつつ順番を待った。

米村先生に呼ばれ、さくっと診察したあとCTなどの検査をした。検査結果が出るまで、病院のスタッフに教えてもらった中華屋さんで昼食。鳥の唐揚げがおいしいらしい。それで鳥唐野菜炒め弁当を注文。ご飯少なめとお願いしたけどボリュームたっぷり。リンゴ、初物のスイカの果物まで入っている。

食べ終わった頃に仕事先から電話が入る。メールチェックしたり、携帯であちこち連絡をとっている合間を縫って、うまい具合に店のおばちゃんが「食後のコーヒー出すなー」と言って絶妙なタイミングでコーヒーが出てきた。なんだかすごい、関西って。会計の時には、「忙しなあ」と“ねぎらい”の言葉をかけられた。こういう時は何と答えると大阪的にGOODなんだろう?

病院に戻って、先生から手術内容を聞く。胆のうと脾臓を摘出、腹膜切除、さらに腹腔内温熱化学療法、入院期間は3週間。さらに良性と悪性の中間なら20年生存率90%と聞き、小躍りしてしまう。それって完治も同然ではないか。

その後、コーディネーターから入院の説明を受ける。病室のネット環境について聞いたら初めて聞かれたとのこと。全部一式用意できるならOK、ということは病室にLANはないだろうから、ipadを持ち込もうっと。

なんだか楽しい気分になってきた。

考えてみたら放射線まみれ

前回の手術までの検査で超音波やMRIのほか、造影剤を使ったCTとX線をしている。術後、まだICUにいるときに出張X線(!)がやってきて、動かない体の下に板を入れ、撮った。一般病棟に移り、体が動くようになってからまたX線、退院前にもX線。

先週末にはPET-CT、来週はたぶんCT。最近、外気や食事など、放射能に気をつけているんだけど、考えてみたら思いっきり放射線まみれなのであった。。。

草津総合病院に行く

米村先生に診療していただくため、一昨日の夜に夫とともに滋賀県の草津に向かった。その日はビジネスホテルに宿泊。病院と提携しているホテルだったので、昨日朝からの受診には病院まで送ってもらえた。

病院では血液とPET-CTの検査を受けたのち、先生の診断となる。放射能汚染の少ない関西で深呼吸してこよう!と思ったけど、考えてみたらPETはちょっぴり被爆するんだった。。。

検査後に院内のレストランで食事をする。窓から少し、琵琶湖が見えた。立派な民家の屋根や白鷺も見えた。ついていたテレビは吉本新喜劇をやっていた。ロケーションはグッド、でも、入院するなら病院食は期待できないかも。そんな瑣末なことを考えた。

午後、先生の診察。かなり待つことを覚悟していたが、その割でもなかった。

私はまたまた録音機を出して、先生に了解を得て録音する。何をおっしゃったか、あとで聞き返したいからだ。また、患者支援の会の藤井さんからのアドバイスで、聞いておきたい事を列挙した質問メモをもって臨んだ。

先生のお話では(私のいかにも素人な質問の答えも含めて)、虫垂原発の腹膜偽粘液腫で虫垂が破れたときは痛くないからわからなかったはず、手術は腫瘍が固まってしまう前に早く取りきるほうが良い、手術では脾臓と胆嚢を摘出、骨盤のほうにはあまりないから人工肛門の心配はない、手術で治る、抗がん剤治療は今のところ必要なし、とのこと。

腫瘍マーカーの値も、CEAが1.5、CA125が9.1と低く(これは卵巣と虫垂を切除した後だからだと思う。ただ、CA19-9は37.8で微妙に高かった。)、「そんなに大したことない」ということだった。

早く手術したいのなら、大阪の岸和田徳洲会病院に来るほうが良いと言われ、岸和田に行くことにその場で決まった。夫の実家が近いので、私たちも何かと都合が良いと思った。

米山先生は社交的でもあり、「この患者はお肌ツヤツヤでとてもがん患者みたいに見えない。粘液がヒアルロン酸だからね。だから、患者はみな美人なんだよ。」などと言ったりもして私たちをなごませた。

受診後、気持ちが一気に明るくなってしまった。その後、コーディネーターの勝谷さんからも、今後のことなどをいろいろ伺い、心強く思った。

病院のすべての用事が終わると、もう5時だった。草津は初めてだから、ちょっと観光でもと思ったが、できずじまい。次から岸和田だし、今度このあたりに来るとしたら100%観光で来るんだ、元気になって。

帰りは、京都で食事をして帰ることにした。京都には年に1度も行かないけれど、行けば必ず寄る店がある。店に入ると、いつもの大将の顔。2年前に見かけたお手伝いの大学生もいた。そして客席には、去年の夏にお会いしたお客さんがいるではないか。その方は、写経のために週末に京都に通っている方で、私は大覚寺の写経の紙をその方から去年、1巻、いただいていたのだった。

この数ヶ月、何もかも変わってしまったと思っていたけど、全然変わらないことが京都で待っていた。涙が出そうだった。嬉しかった。あー、写経しなくちゃ!もらったままなんだよね。。。

 

 

 

 

病気と原発がワンセットでやってきた

地震、原発、、、たまたま時期を同じくして体調を崩し、手術の結果、腹膜偽粘液腫とわかった私。病気について「予後不良」「5年生存率20〜50%」または「余命については普通は十数年以上のことが多い」といった情報をネットで見つけるにつけ、「死」を身近に感じつつ、これからの何気ない一日一日をいとおしく思いながら過ごそうと思ったものだった。

しかし、私はこれから、死の恐怖から逃れるために、健康になるために、米村先生の診断を仰ぎにいくのである。治るかもしれない。それは自分に希望を与えてくれた。

ところが原発といったら。ただちに健康被害はなくても、これから先、がんになったりするわけでしょう? 「余命については普通は十数年以上のことが多い」と同じじゃないか!と思ってしまう。

茶道で使われる茶杓に「無事」という銘がついたものがある。禅語で、「外に向かって求める心が消えた状態」をいうのだそうだが、日本人は結構、こういう感覚に支配されているのかなと思う。原発の放射能について、どうにかしようとか逃げようという気持ちよりも、この状態のなかで、日々の穏やかな暮らしを全うしようとする気持ち。やがてやってくる恐怖の時から逃れようとせず、受け入れてしまう気持ち。

私も当初、ただちにどうこうというわけではない病気だから、なんとか付き合いながら来るべき時には静かにこの世を去るか、、、なんて考えたけれど、やっぱり「来るべき時」を本気で想像したら怖くて怖くて、絶対にそのときに後悔すると思った。なぜあの時に対処しなかったのだろうと。だから今、私はこの病気について対処することにしたのだ。

原発だって同じである。来るべき時に後悔したくない。赤信号みんなで渡れば怖くない、だけど、ヤバいものはヤバい。ああ、どうしたら良いのだろう?どうするべきなのだろう?

病気ダイエット

「たった1週間で7kg※減!」

「寝ているだけで痩せられる!!」

「ぜんぜんお腹が空きません!」

だけど痛いし、お腹に傷が大きく残ります。精神的なダメージはハンパじゃありません。

※うち、4〜5kgは摘出した粘液や臓器となります。

よいこは真似をしないでね。

病歴プロフィール(1)

2011年4月、49歳0か月で卵巣腫瘍(卵巣がんの疑い)の開腹手術を受けました。そこで初めて、虫垂原発の腹膜偽粘液腫と診断されました。

これまでの病歴は、子宮腺筋症(子宮動脈塞栓術を受け、完治。QOLが格段に上がり、感動した。オススメの術式※)、乳腺腺筋上皮腫(確かそんな名前。経過観察も終わりにするかというくらい、今のところ問題なし)、尿管結石(体外衝撃波結石破砕術を受けるも、石が小さすぎて2個あるうちの1個は取れず、育ってるのでは?)。挙げてみると、意外にありますね。

※先進医療の「高周波切除器を用いた子宮腺筋症核出術」というのがあるのを今知りました。治療に選択肢が増えるのは嬉しいものです。どこでも受けられて、さらに安ければもっといいけれど。。。

消化器外科とセカンドオピニオン

昨日は消化器外科の予約日。落ち込んだ日だった。

医師にセカンドオピニオン用の資料をお願いすると、婦人科からの申し送りがうまくいっていなかったらしく、「もうここには来ないでくれ」と言われた。セカンドオピニオンの先生がいう治療方法と比べて、どうしたいかを決めたいのに。

入院中に婦人科の先生から外科の先生の話として聞いた治療法は、今後、胸にポートを埋め込み、抗がん剤治療をするということだった。そこまでは聞いていたが、直接、外科の先生から聞いてはいなかったので、まずはセカンドオピニオンの話をする前に、先生自身から診療方針を聞くべきだったかもしれない。しかし、すでに婦人科でセカンドオピニオンを受ける話をしており、その予約日が21日であるため、資料を間に合わせたい焦りがあった。治療法が確立されていない病気の患者という立場から言わせてもらえば、第一人者である専門医のセカンドをなんとか早い機会に受けておきたいと思うのは当然ではないだろうか。

外科の医師は「滋賀まで通うつもり? がんみたいな病気は住んでいる地域でしかできないんだよ」と言った。

「通うというわけには行きません。でも根治できる手術が受けられるようなんです。」

「根治なんてないよ。この病気はね、後から後から粘液が出てくるんだよ。」

「粘液を取りきれば、根治できるんじゃないんですか?」

「取りきれないよ。運良く取れたとしても、後からまた出てくる。」

そして、この治療には飲み薬の抗がん剤を「永遠に」服用し続けながら、お腹に粘液が溜まるごとに手術を繰り返すしかないとのことだった。

飲み薬の抗がん剤の話は聞いてなかったから、どんな薬なのか、聞いてみた。

「UFT、ユーゼル、○○○の3種類。」

最後の1種類は聞き取れなかった。了承を得て録音していたので、後から聞き返したが、もしかしたらクレスチンかもしれない。ポート埋め込みの抗がん剤と効果は変わらないとも言っていた。

「永遠に飲み続けなければいけないんですか?」

「永遠に。」

「死ぬまで飲み続けるってことですか?」

「体がきつくなるまで。」

なのに、効果は期待できないとも言っていた。それで「永遠に」? 身体的、精神的、経済的にもきつすぎると思った。

とにかく、資料をセカンドオピニオンに間に合うようにお願いして、診察室を出た。この病院で治療する選択肢がなくなった気がし、とても不安でならなかった。つい、患者支援の会の藤井さんに愚痴メールをしてしまった。。。

(追記:この時のことを思い出すと、先生は、私がセカンドオピニオンを受けたい理由を医師との相性の問題と捉えていたかもと思う。というのは、先生が「僕はあなたのお腹の中しか知らないんだよ。お互いの性格もまだ知らないのに」というようなことを仰ったから。

開腹して腹膜偽粘液腫とわかり、急遽手術に加わってくださったのがこの先生である。次の米村先生の手術では、米村先生は大学病院での手術でお腹の中をよく洗浄してくれていたのが良かったと仰っていた。それは術後の家族説明で米村先生が仰ったことで、私は甥が撮ったそのときのビデオを見て知っている。だから、最初の手術の処置は大変適切だったのだと感謝している。

命にかかわる、また、長きにわたる治療の場合、先生との相性は重要だ。相性が悪ければ、辛すぎてやっていられない。しかし今回の私の場合は相性以前の問題で、治療方針の違いである。腹膜を切除する術式が、誰に対しても最適かというと違うだろう。年齢や体力、進行度、考えられる合併症の可能性、人生に対する考え方、、、そんないろいろな要素を鑑みて、患者本人が決断すべきことだと思う。)