Archive for the ‘02.病名がわかってから(入院・手術)’ Category

考えてみたら放射線まみれ

前回の手術までの検査で超音波やMRIのほか、造影剤を使ったCTとX線をしている。術後、まだICUにいるときに出張X線(!)がやってきて、動かない体の下に板を入れ、撮った。一般病棟に移り、体が動くようになってからまたX線、退院前にもX線。

先週末にはPET-CT、来週はたぶんCT。最近、外気や食事など、放射能に気をつけているんだけど、考えてみたら思いっきり放射線まみれなのであった。。。

草津総合病院に行く

米村先生に診療していただくため、一昨日の夜に夫とともに滋賀県の草津に向かった。その日はビジネスホテルに宿泊。病院と提携しているホテルだったので、昨日朝からの受診には病院まで送ってもらえた。

病院では血液とPET-CTの検査を受けたのち、先生の診断となる。放射能汚染の少ない関西で深呼吸してこよう!と思ったけど、考えてみたらPETはちょっぴり被爆するんだった。。。

検査後に院内のレストランで食事をする。窓から少し、琵琶湖が見えた。立派な民家の屋根や白鷺も見えた。ついていたテレビは吉本新喜劇をやっていた。ロケーションはグッド、でも、入院するなら病院食は期待できないかも。そんな瑣末なことを考えた。

午後、先生の診察。かなり待つことを覚悟していたが、その割でもなかった。

私はまたまた録音機を出して、先生に了解を得て録音する。何をおっしゃったか、あとで聞き返したいからだ。また、患者支援の会の藤井さんからのアドバイスで、聞いておきたい事を列挙した質問メモをもって臨んだ。

先生のお話では(私のいかにも素人な質問の答えも含めて)、虫垂原発の腹膜偽粘液腫で虫垂が破れたときは痛くないからわからなかったはず、手術は腫瘍が固まってしまう前に早く取りきるほうが良い、手術では脾臓と胆嚢を摘出、骨盤のほうにはあまりないから人工肛門の心配はない、手術で治る、抗がん剤治療は今のところ必要なし、とのこと。

腫瘍マーカーの値も、CEAが1.5、CA125が9.1と低く(これは卵巣と虫垂を切除した後だからだと思う。ただ、CA19-9は37.8で微妙に高かった。)、「そんなに大したことない」ということだった。

早く手術したいのなら、大阪の岸和田徳洲会病院に来るほうが良いと言われ、岸和田に行くことにその場で決まった。夫の実家が近いので、私たちも何かと都合が良いと思った。

米山先生は社交的でもあり、「この患者はお肌ツヤツヤでとてもがん患者みたいに見えない。粘液がヒアルロン酸だからね。だから、患者はみな美人なんだよ。」などと言ったりもして私たちをなごませた。

受診後、気持ちが一気に明るくなってしまった。その後、コーディネーターの勝谷さんからも、今後のことなどをいろいろ伺い、心強く思った。

病院のすべての用事が終わると、もう5時だった。草津は初めてだから、ちょっと観光でもと思ったが、できずじまい。次から岸和田だし、今度このあたりに来るとしたら100%観光で来るんだ、元気になって。

帰りは、京都で食事をして帰ることにした。京都には年に1度も行かないけれど、行けば必ず寄る店がある。店に入ると、いつもの大将の顔。2年前に見かけたお手伝いの大学生もいた。そして客席には、去年の夏にお会いしたお客さんがいるではないか。その方は、写経のために週末に京都に通っている方で、私は大覚寺の写経の紙をその方から去年、1巻、いただいていたのだった。

この数ヶ月、何もかも変わってしまったと思っていたけど、全然変わらないことが京都で待っていた。涙が出そうだった。嬉しかった。あー、写経しなくちゃ!もらったままなんだよね。。。

 

 

 

 

病気と原発がワンセットでやってきた

地震、原発、、、たまたま時期を同じくして体調を崩し、手術の結果、腹膜偽粘液腫とわかった私。病気について「予後不良」「5年生存率20〜50%」または「余命については普通は十数年以上のことが多い」といった情報をネットで見つけるにつけ、「死」を身近に感じつつ、これからの何気ない一日一日をいとおしく思いながら過ごそうと思ったものだった。

しかし、私はこれから、死の恐怖から逃れるために、健康になるために、米村先生の診断を仰ぎにいくのである。治るかもしれない。それは自分に希望を与えてくれた。

ところが原発といったら。ただちに健康被害はなくても、これから先、がんになったりするわけでしょう? 「余命については普通は十数年以上のことが多い」と同じじゃないか!と思ってしまう。

茶道で使われる茶杓に「無事」という銘がついたものがある。禅語で、「外に向かって求める心が消えた状態」をいうのだそうだが、日本人は結構、こういう感覚に支配されているのかなと思う。原発の放射能について、どうにかしようとか逃げようという気持ちよりも、この状態のなかで、日々の穏やかな暮らしを全うしようとする気持ち。やがてやってくる恐怖の時から逃れようとせず、受け入れてしまう気持ち。

私も当初、ただちにどうこうというわけではない病気だから、なんとか付き合いながら来るべき時には静かにこの世を去るか、、、なんて考えたけれど、やっぱり「来るべき時」を本気で想像したら怖くて怖くて、絶対にそのときに後悔すると思った。なぜあの時に対処しなかったのだろうと。だから今、私はこの病気について対処することにしたのだ。

原発だって同じである。来るべき時に後悔したくない。赤信号みんなで渡れば怖くない、だけど、ヤバいものはヤバい。ああ、どうしたら良いのだろう?どうするべきなのだろう?

病気ダイエット

「たった1週間で7kg※減!」

「寝ているだけで痩せられる!!」

「ぜんぜんお腹が空きません!」

だけど痛いし、お腹に傷が大きく残ります。精神的なダメージはハンパじゃありません。

※うち、4〜5kgは摘出した粘液や臓器となります。

よいこは真似をしないでね。

消化器外科とセカンドオピニオン

昨日は消化器外科の予約日。落ち込んだ日だった。

医師にセカンドオピニオン用の資料をお願いすると、婦人科からの申し送りがうまくいっていなかったらしく、「もうここには来ないでくれ」と言われた。セカンドオピニオンの先生がいう治療方法と比べて、どうしたいかを決めたいのに。

入院中に婦人科の先生から外科の先生の話として聞いた治療法は、今後、胸にポートを埋め込み、抗がん剤治療をするということだった。そこまでは聞いていたが、直接、外科の先生から聞いてはいなかったので、まずはセカンドオピニオンの話をする前に、先生自身から診療方針を聞くべきだったかもしれない。しかし、すでに婦人科でセカンドオピニオンを受ける話をしており、その予約日が21日であるため、資料を間に合わせたい焦りがあった。治療法が確立されていない病気の患者という立場から言わせてもらえば、第一人者である専門医のセカンドをなんとか早い機会に受けておきたいと思うのは当然ではないだろうか。

外科の医師は「滋賀まで通うつもり? がんみたいな病気は住んでいる地域でしかできないんだよ」と言った。

「通うというわけには行きません。でも根治できる手術が受けられるようなんです。」

「根治なんてないよ。この病気はね、後から後から粘液が出てくるんだよ。」

「粘液を取りきれば、根治できるんじゃないんですか?」

「取りきれないよ。運良く取れたとしても、後からまた出てくる。」

そして、この治療には飲み薬の抗がん剤を「永遠に」服用し続けながら、お腹に粘液が溜まるごとに手術を繰り返すしかないとのことだった。

飲み薬の抗がん剤の話は聞いてなかったから、どんな薬なのか、聞いてみた。

「UFT、ユーゼル、○○○の3種類。」

最後の1種類は聞き取れなかった。了承を得て録音していたので、後から聞き返したが、もしかしたらクレスチンかもしれない。ポート埋め込みの抗がん剤と効果は変わらないとも言っていた。

「永遠に飲み続けなければいけないんですか?」

「永遠に。」

「死ぬまで飲み続けるってことですか?」

「体がきつくなるまで。」

なのに、効果は期待できないとも言っていた。それで「永遠に」? 身体的、精神的、経済的にもきつすぎると思った。

とにかく、資料をセカンドオピニオンに間に合うようにお願いして、診察室を出た。この病院で治療する選択肢がなくなった気がし、とても不安でならなかった。つい、患者支援の会の藤井さんに愚痴メールをしてしまった。。。

(追記:この時のことを思い出すと、先生は、私がセカンドオピニオンを受けたい理由を医師との相性の問題と捉えていたかもと思う。というのは、先生が「僕はあなたのお腹の中しか知らないんだよ。お互いの性格もまだ知らないのに」というようなことを仰ったから。

開腹して腹膜偽粘液腫とわかり、急遽手術に加わってくださったのがこの先生である。次の米村先生の手術では、米村先生は大学病院での手術でお腹の中をよく洗浄してくれていたのが良かったと仰っていた。それは術後の家族説明で米村先生が仰ったことで、私は甥が撮ったそのときのビデオを見て知っている。だから、最初の手術の処置は大変適切だったのだと感謝している。

命にかかわる、また、長きにわたる治療の場合、先生との相性は重要だ。相性が悪ければ、辛すぎてやっていられない。しかし今回の私の場合は相性以前の問題で、治療方針の違いである。腹膜を切除する術式が、誰に対しても最適かというと違うだろう。年齢や体力、進行度、考えられる合併症の可能性、人生に対する考え方、、、そんないろいろな要素を鑑みて、患者本人が決断すべきことだと思う。)

術後初外来

昨日は退院後、初めての外来。今回の診療で婦人科の先生とはお別れで、次は外科の先生にお世話になる予定になっている。
10時半の予約時間少し前に夫と行ったが、ゴールデンウィーク後の診療のせいだろうか、3時間待ちとなってしまった。

傷の状態のチェックでは問題なかった。今回の病気・手術説明については、手術時の画像を見せてもらい、肝臓などにべったりとくっついている粘液は取れずに残っていること、腹膜偽粘液腫は良性であっても悪性の経過をたどること、治療法が確立していないこと等を改めて聞き、気持ちがやや落ち込んだ。

もはや今の微妙な体調不良はどうでも良いとも思われたが、婦人科の先生に気軽に聞けるのも今しかないので、こんなことを聞いてみた。
「寝てるときや何でもないときに、おしっこの出る口がキューって痛くなるんですけど。」
「うーん、それは、、、あります。子宮取ってると。」
「そのうち、そんなことを忘れるくらいになりますかね?」
「……そーですね。」
なんだかはっきりしない答えだったけど、その件については深く立ち入らない方が私自身が精神的にも良さそうな気がした。

セカンドオピニオンを受けるために紹介状をお願いすると、こちらの治療方針も外科から聞くようにと付け加えながら、先生は気持ち良く手配してくれた。

さらに保険会社への請求の用紙を頼む。こちらはしばらく時間をくれとのこと。すでに机の上には他の患者さんたちのらしい用紙がファイルされ、積まれていた。3時間待ち診療のなかで、こういう煩わしいのもやらなきゃいけないのは大変だと同情した。が、早いとここちらも欲しい。。。

一緒に来てくれた夫を、車で横浜駅まで送ると、午後4時だった。会社に着いたら5時か。申し訳ない。

家に着いて、米村先生の手術を受けた人のことを知りたくていろいろ検索した。しっかり取り切るというのは、やはり大変な手術のよう。後遺症や合併症のことが気になる。ゴールデンウィーク中は比較的ノーテンキで過ごしていたのだが、また気持ちがナーバスになってしまう。とはいえ、選択肢はいろいろあったほうが良いに決まっている。草津の病院予約日に前泊するため、ビジネスホテルの予約を取った。

退院後の2週間

これは7月20日に、岸和田の病院で当時を思い出しながら記したものです。

仕事はゴールデンウィーク明けから行くことにしていたので、ひたすら家で病気についてネット検索をしていた。

腹腔鏡で粘液を取りつつ、20年以上生存している患者さんがいたりして、私もそのような形でなんとか生きられないかな、などと考えていた。

とにかくその頃の私は暗かった。お腹の腸の具合も変だし、外出はあまりしないで、ぼーっとしながらパソコンの前に座っていた。夫が後で話してくれたが、とにかく、声もかけられないくらい私は放心状態だったようである。

そのようななか、ネットで腹膜偽粘液腫患者支援の会を知る。それで入会することにした。

すぐに連絡が来て、米村豊先生のセカンドオピニオンを受けることを勧められた。まだ手術したばかりでセカンドなどと思ったが、治療の選択肢は多いほうが良いからと、プッシュされたのだった。

支援の会の代表である藤井さんは、息子さんをこの病気で亡くされていた。その悲しみから目を背けることなく、同じ病気の患者さんたちをパワフルにバックアップしているのだった。

あそこで強力にプッシュしてもらわなかったら、私はどうなっていただろうかと思う。うだうだする間もなく、私はセカンドオピニオンを受ける準備を始めた。もしかしたら、このあり得ない状態から脱出できるかも。。。はるか先から希望の灯火がほんのりと私を照らしているような気がしてきた。

大学病院を退院

これは実際には7月20日に岸和田の病院で、当時を思い出しながら記しました。

術後3日目くらいから俄然、回復してきて気分が良くなってきた。そうなると、自分が髪にブラシをかけてないことに気付いたり、ベッド周りを快適空間に整えたりし始めた。病室には相部屋でもLANがついていてPCを持ち込んでいたので、ネットサーフィンなどしたり、持ってきてもらった漫画を読んだりして時を過ごした。

 (他の人の入院ブログを拝見すると、皆さん、窓の風景を撮っているので、真似して撮ってみた。程よく田舎で緑が見え、病室が12階だったので空も広く、気持ち良かった。)

また、とにかく歩いた方がよいとのことで、結構頑張って廊下をウロウロしたと思う。

夫や両親、弟夫婦も良く見舞いに来てくれて気が紛れた。とくに義妹がよく来てくれ、足りないものを買って来てくれたりもして、とても助かった。

そんな日を送り、ついに退院となった。その日は父が来てくれた。父とタクシーで帰り、その日は実家に一泊した。

転科告知

この記述は、7月12日、岸和田の病院で当時を思い出しながら書いたものです。

夕方ごろだったろうか、ぶらりと主治医がやって来た。こちらはどうも体をじっとしていられないというか、体がだるくてだるくて、うまい落ち着きどころがなく、ベッドの上で横座りにぼうっとしているところだった。

「聞いた?」
「はい。。。」
先生は家族から私が病名などは聞いたこととして、次のステップを話し出した。虫垂原発と考えられるから、婦人科から外科に転科して、今後の治療は外科の先生が行うことになると。

先生は外科の先生は胸にポートを埋め込み、そこから抗がん剤治療をしたいと言っていたという話もされた。私は足の小指にできたマメをいじりながら、先生の話をぼうっと聞いていた。

恐怖のICU

この記述は岸和田の病院で当時を思い出しながら、実際には7月12日に記しました。

ICUには術後24時間入ると聞かされていたが、こんなに長く辛く発狂しそうな24時間は過去に経験がない。

自分自身は背中に硬膜外麻酔、首や左手首から各種点滴の針が固定され、お腹3か所からは排出物のドレーンが出ているし、尿も導尿。胸には心電図、指先は酸素を測る計器、鼻の奥にはチューブが入っているし、酸素マスクもつけていた。そして脚には弾性ストッキングの上からご丁寧にフットポンプが巻き付けられ、身動きなぞままならない状態である。

・・・腰が痛い。看護師さんにやや体を横向きにしてもらったりするのだが、傷の痛みなんかより、腰が痛くてたまらない。

絶飲食で口の中も気持ち悪く、うがいを1度させてもらった。

部屋はだだっ広いことだけがわかる。自分は一番端のベッドだというのもわかった。しかし眼鏡を持ち込ませてもらえなかったため、何も見えず、恐怖が募る。隣の60代の男性はICUシンドロームになっており、時々、看護師に悪態をついた。私は、なぜかその男性が「◯◯さん、起き上がっちゃダメでしょ」と言われるたびに、私の顔を覗いているのではないかという錯覚にとらわれた。

なぜ男性が60代と知っているかというと、看護師さんが何度となく名前や年齢、ここはどこかを確認するから。

でも、あの環境ではおかしくなって当たり前だと思う。時間もわからず、何時かと聞くと、さっき聞いた時からほんの数分しか経っていなかったりする。単調で、時間の流れも感じない空間は、1秒がとても長い。もっと音楽をかけたり、いろいろなくふうをしてほしい。

とにかく辛く、でも24時間は出ることができないなか、私は、腹膜偽粘液腫について知っていることを何度も何度も反芻しつつ、出られるのを待った。