Archive for the ‘01.病名がわかるまで(婦人科手術)’ Category

腹膜偽粘液腫は健康診断でわからないのか?

何度かそんなことを聞かれたことがある。

答え。「わからなかったです、ワタシの場合。」

私が毎年していたのは保険組合の生活習慣病予防健診で、乳房の超音波はあってもお腹の超音波はないし、ましてやCTやMRIもない。

身体計測の体重と腹囲は、平成19年は身長から割り出す標準体重より少なかったのに、翌年はそれを超え、21年、22年とじわじわ増えて、腹囲も当然大きくなっていた。でもメタボには当たらないので問題なしだった。(ちなみに、この数値から病気の仕業で体重が増加したのはいつかを推測はできないと思う。単純に太っただけかもしれないし。)

一つ「あれ?」と思うのは胃のX線検査で、「幽門前庭部粘膜不整」とあり、「びらん性胃炎」と診断され「二次検査を要します」だったことである。それで二次検査でまたX線検査をしたのだけれど、今度は「異常ありません」だった。病気とは関係なかったかもしれないが、その部分を切除したことを考えると、もっと調べてもらえたら何らかの異常が発見されたのではとも思う。

健康診断を受けたのは10月末で、二次検査を受けたのが12月半ば。それから4か月後にお腹を切ることになろうとは(それも、また2か月後にもーっと切るとは)、想像すらできなかったし、健康診断で問題なかったから健康なのだとも思っていた。

しかし、そもそも健診は多くの人がなりやすい病気を発見するものである。腹膜偽粘液腫などわからなくて当然なのだ。

銀座医院の亀山先生がいつも「何かあったら躊躇しないですぐ来てね」と仰るのだけれども、どこかおかしいと感じたら、健康診断で安心せずに個々に診てもらわないと、と身をもって感じるのだわ〜。

あとから気づいた自覚症状

少なくとも1年以上前には腹膜偽粘液腫を発症していたと思う。あとになってから「あれが自覚(すべき)症状だ」と思い当たる。

まず、1年以上も前から、くしゃみをすると尿もれが。てっきり骨盤底筋が緩んでしまっているのだと思っていた。ごく少量なのでおりものシートですんでいたし、ま、歳をとればこんなもんだろうと、気にしないことにしていた。ところが1度目の手術後は、くしゃみをしてもまったく大丈夫。尿もれは歳のせいではなかったのだ。卵巣が腫れて膀胱を圧迫していたのだろう。

初めて病院に行ったその2か月くらい前からは、ほぼ毎日、2〜3回くらいの便通があった。仕事しているとどうもこれが困りものだったが、術後はすっかり解消された。今は便秘気味で困っているんだよなー。

粘液腫がお腹に充満すると、腸を圧迫して便秘になることがあるらしい。私の場合はまだ圧迫加減が弱く、少量ずつ流れていたのかなと勝手に推測している。

そして最も大きな自覚症状は、お腹が大きくなったこと。去年の夏頃、お腹周りに肉がついたなーと焦ったのを覚えている。そこでブームになっていた骨盤ベルトを買ったり、フラフープをやってみたり。今にして思えばまったくの大バカ行為である。元来、すぐ飽きるタチだから良かったものの、ひたすら骨盤ベルトやフラフープをやっていたら、お腹に悪い影響を与えかねなかった。

どの症状も、珍しいものではない。でも、それらは病気の仕業だったのだ。

こちらの写真は2月中旬、お茶会があって着物を着たときのもの。自分で帯を締めているとき(付け帯だけど)、やはりお腹がぽんぽこじゃないの?と思い、家に戻ってからぽっこり具合を撮ってみたのだった。よくこんなお腹でお茶会に行ったよなあ。。。自分でも呆れる。

2013年11月4日追記:【発症はいつだったのか?】
今もってわからないが、7〜8年前、いや10年以上前だったか、、、ある一時期、右下腹部がピンポイントで痛い時があった。ズキンズキンとする痛みが来て我慢しているうちに消える。それがしょっちゅう起きた。痛みはひどいものでもなかったから、家では「盲腸かなあ」なんて話しながらも病院に行くでもなく過ごしていた。

あの、ズキンズキンしていた痛みを、再発して手術を待つ今、1週間くらい前からときどき体感中。なので、もしや関係があるかもと。癒着が痛いだけかもしれないけど。

婦人科手術の朝

この記事は7月11日に、岸和田の病院で当時を思い出しながら記しました

朝、病室に婦人科の主治医がぞろぞろ引き連れてやって来る。手術治療はチーム医療だとは仰っていたし、大学病院なのだからそうなるのだろうが、些か驚いた顔をすると、主治医が「白い巨塔でーす」と言うので、一応ここは笑うポイントだしと私もゾロゾロきた先生方も声を出して笑う。これが私には良かったようで、無理に?笑ったお陰で緊張がほぐれる。

家族は、夫、父、弟夫婦が朝からきてくれた。術着に着替え、車椅子に乗って手術室に向かう時には、気持ちは落ち着いていた。なるようにしかならない。
今日には結果がわかるのだ。

 病室前の廊下にて。車椅子を押してもらいながら、自分自身が左手に入れた点滴を下げた棒を押して行く。

東海大学病院に入院

この記事は実際には7月11日に、岸和田の病院で思い出しながら書きました。

朝、義妹が車で迎えに来てくれた。美味しいランチでもしてから入院するため、早めに来てもらったのだ。

伊勢原のイタリアンで、二人でランチ。窓の外は天気も良く、これから入院するなんて嘘のような気分だった。

病院に着き、しばらく義妹がいてくれた間に、入院手続き、明日の手術のための麻酔科受診、ついでに自分でおへそのお掃除や剃毛もしたりする。
その後、下剤を飲む。量は500mlで、味はそんなに不味くなかった。眠れそうにないけれど、どうせ入院なんて寝たい放題なのだろうと、気にしないことにした。

家族会議

この記事は、実際には7月20日に岸和田の病院で思い出しながら記しました。

この日、手術のことを両親に話すため実家に行く。すでにおおよその話はしていた弟夫婦にも来てもらった。

現在、医師から聞いていること、手術の日程などを、淡々と話した。年老いた両親をむやみに心配させたくなかった。

両親は動揺している風でもなく、母は黙って聞いていた。父は、
「俺なんかあっちこっち切っているけどまだ生きているぞ。だいたい、うちにはガンになった人間なんかいないんだから、そういう家系じゃないし大丈夫だよ。」と言ったので、一瞬、皆、固まってしまった。

実は、父は7〜8年前に初期の大腸がんの手術をしていたのである。私たちは本人に告知しないまま、今まで来たのだった。

とりあえず、手術する病院は実家から近いので、どこか気軽さもあり、入院中はいろいろ家族にヘルプしてもらうということで家族会議は終わった。

その後、弟にちょっと前からお願いしていた、私のスナップ写真を撮ってもらう。万が一のことを考えて、抗がん剤でやつれた顔の写真が遺影になっては堪らないので、地毛フサフサで血色の良い、にこやかな写真を撮っておこうと思ったのだ。

何枚か撮ったのだけど、自分のブスさ加減を棚に上げて、どれもまったく気に入らなかった。これじゃ死ねんわ。

婦人科外来3回め

この記事は、実際には2011年6月14日に記しました。

どうせ貯血に来院するなら、もう一度、その日に予約を入れましょうということで、外来診療。手術内容について、主治医と入院前の最後の確認をした。この日があって良かったと思う。これまで、気が早い私は何度も「現時点でわかる状況は?」と伺ってばかりいた。その度に先生は不機嫌に「お腹を開けてみなければわからないです」と繰り返した。頭では理解しても、手術するまで自分の病気の内容がわからないという事実がもどかしく、不安感を増幅させた。

先生が「悪いようにはしないから」とおっしゃる。ちょっとおかしかった。そしてお願いをした。

「今後のQOLとか考えるんです、リンパ浮腫にならないためのケアが自分にとって難しいと思うから、もし、リンパ節を取るかどうか悩むことが起きたら、取らないでほしいんです。」

リンパ浮腫にならないためにはマッサージが欠かせないらしいし、正座もしないほうが良いなど、私はネット上で知識を得ていた。毎日疲れてすぐ寝てしまうし、正座ができないなら趣味の茶道も無理。なるべくなら取りたくない。

先生は「う、ん」と返事をされ、紙に何かを書き留めた。その「う、ん」になぜか私は安堵し、手術への不安が和らぐのを感じた。

(2011年11月24日追記:このときの外来診療予約表を見ると、この話は、どうやら4月8日のことのようだ。4月1日は胃の内視鏡の結果をもとに、再度、手術内容を確認したのだと思う。ということは、婦人科外来は手術前に4回行ったことになる。)

20数年ぶりの胃カメラ

この記事は、実際には2011年6月14日に記しました。

28日に消化器内科初診があり(いちいち大学病院って面倒だ)、この日、胃カメラを受ける。受けるのは20数年ぶりだ。「んがんが」してしまって苦しかったのを覚えている。でもそんなことは今はどうでもよくて、悪い結果でないのを祈るのみ。

「あー、潰瘍の痕がありますね。」

20年以上前のものでも、痕が残っているのだろうか。

「あとはきれいですよ。」

問題なしとのお言葉。よだれをだらだら流しながら、検査は終わった。起き上がって、うまく履けない靴にあたふたしながら、先生たちに何度も「ありがとうございます」とぺこぺこお辞儀しながら、部屋を出た。

婦人科外来2回め

この記事は、実際には2011年6月14日に記しました。記憶が少しあやふやです。

夫と一緒に受診。これまでの検査から、リンパに転移がない、スキルスでもないと先生から伝えられる。それは良い知らせなのだが、この時はまだ知識が浅く、ああそんなものかと思う。しかし、腹水の検査結果はクラスIV。

「悪性ってことですか?」

「悪性の可能性があるということです。」

そして手術の日にちを相談する。最初の診療では、混んでいるから2か月くらい先との話だったが、来月4月14日に決まった。先生によれば、震災の影響で学会の予定が変更になったのだそうだ。私の前に呼ばれた人は、空いたこの時に手術日を繰り上げた患者さんだと先生はおっしゃっていた。その女性は、夫らしき人に車椅子を押してもらっていた。。。

私はよほど悪いのだろうか。いずれにしてもお腹が張って苦しく、手術を早くしてもらえるのは嬉しかった。

先生は手術内容等をプリントして私たちに説明した。子宮単純摘出、両側付属器切除、悪性だったら骨盤から傍大動脈リンパ節郭清、大網切除が加わる(今、プリントを見ずに記憶を頼りに記しているので間違いがあるかも)。リンパ節を記した人体図のカードが白衣の胸ポケットから取り出され、郭清するという部分が指し示される。境界悪性の場合は悪性に準じた術式になる。良性であれば手術の時間は3時間ほど、そうでなければ6時間くらい。

どのくらい切るのかという私の問いには「恥骨から上へお臍の上まで。この絵よりももっと上まで切ることになるでしょう」と、プリントの臍の上まで点線が入ったイラストに、先生は赤ペンで破線を追加した。

先生は、念のため胃の内視鏡検査をしておきましょうとおっしゃった。輸血用に自己血を貯血する予約も入れることになった。

(その後、夫の話では、先生が「一緒に頑張りましょう!」とおっしゃったのだそう。全然覚えていないのはたぶん、手術の内容がネットで調べてわかっていたにも関わらず、実際に示されてショックで、呆然としてしまったからだと思う。)

計画停電

この記事は、実際には2011年5月29日に記しました。

ずっとずっと、ネットで病気のことを調べていた。卵巣がんだったら腹水もあることだし、かなり悪いのだろうか? いや、腹水があっても、良性の可能性だって。。。

3月になってから憂鬱が私を支配していた。今まで考えたこともなかったことが世の中にも私の体にも起きている。呆然としながらも、それを事実として淡々と受け入れざるを得なかった。

17日はMRIの予約日で病院に行った。検査着に着替えたところで、検査は延期と伝えられる。これまで回避されていた計画停電がこれからあるというのだ。病院に来るには1日仕事、家からも車で1時間かかるので、なんとか停電が終わってから検査できないものか頼み、その日の夜に検査してもらうことになった。技師の方たちが快くOKしてくれて感謝。

時間になるまで、実家で待機することにした。外は信号機が消えていて、運転するのが怖かった。

なんでこんなことが起こるのだろう?

この記事は、実際には2011年5月12日に記しました。

この日、仕事の用事で外出していた。あともう少しで会社に戻るというとき、あの地震が起きた。立っていられなくて、大きな街路樹につかまって揺れがおさまるのを待った。思わず、そこにいた知らない人と見つめ合ってしまった。

その日は会社に泊まった。夜は床にダンボールを敷き、横たわった。膨らんだお腹が苦しい。横向きになると、今度は骨盤が痛い。すごいことが起きてしまった。私の体にも起きてしまった。なんでこんなことが起こるのだろう? なんでこんなことが起こるのだろう? なんで。。。 答えのない問いを、繰り返し繰り返し心のなかでつぶやいていた。