ドタキャンしました

今朝起きてしばらくして、あの膨満感が襲ってきてしまった。これってやっぱり腸閉塞? 2日前に出したし、ガスだって出てたけど。。。

午後には出社しようと様子をみるも、どんどん苦しくなるばかり。そのうち、緑がかった茶色い液体を何度となく吐いた。じっと寝ていられない腹痛も。病院に行こうにも、とても歩いては行けない。今日はもうダメだ。

諦めて会社に電話。や、休みます。。。

関係各位へ。この場を借りて、ドタキャンをお詫び申し上げます。(こんなとこで謝っても、気付かれないけど。Tさん、Mさん、ゴメンナサイ。)

おかげさまで、夜には治った。今回は苦しい時間が長かったなー。ふー。満腹感を望むより、こうならないことの方がずっといいや。節制&摂生します。。。

満腹感がない

最近気づいたこと。それは、満腹感がない、ということ。

満腹感がないから食べ続けてしまうと下腹が重だるくなってきて、突如苦しさが襲ってくる。胃の膨満感とはまた明らかに違う痛みだ。そんなことで、食べ過ぎと知る。

食べるたびに苦しいのは困るので、たとえば一人前の料理だったら、残すべき分を先に取り分けてしまったりする。とくにお腹が空いているとキャパシティ以上に食べてしまい、痛い目に遭うから。かつて食べていた量なのだし、そろそろこれくらい食べられるだろうとつい思ってしまうのだ。

食べるのが苦痛だった頃に比べれば、満腹感がないくらい、どうってことない気もするけれど、あの、「お腹いっぱいで幸せ〜」な気分をまた味わってみたいものだ。

天重弁当

江戸前天丼をいつか食べるんだ!と思って、日々、鍛えて?いるワタクシであるが、ついに、お昼に地味めな天重(らしき)お弁当を食べた。

量は少なめ。海老など甘エビか?と思う大きさ。以前の私だったら文句爆発だけれど、今はこの程度がちょうど良いみたい。

確実にお腹の機能が回復してきているなあ。

闘病はしていません

久しぶりに会う人は皆、私がやたら元気なので肩すかしを食らう。闘病してるのかと思ったら、なに、その顔色の良さは!というふうだ。

入院時は少しは闘病的?な気分にもなったけれど、とくに闘病してるわけでもないし。今は胃腸を切った人が困ることを、私も少し経験中なだけだ。

もし、セカンドオピニオンを受けることなく、全身化学療法で様子を見ながら生活していたら、話は違っていただろうけれど。

運命とのコラボ

腹膜偽粘液腫になる確率が100万人に1人とすると(先日のシンポジウムでは、日本はもっと多いのではという話もあったが)、日本では年間120人程度の発生が推測されるという。稀な病気には違いないが年間発症率でこの数字だから、今、日本にはそれなりの数の患者または病気経験者がいるはずで、めちゃめちゃ珍しいものでもないとは思う。

だがそんな病気になり、さらに因縁めいた偶然に何度も遭遇してみると、これほどのことが度重なる確率は一体どれくらいなのかと考えてしまう。不毛な計算である。

人はこれを運命と言う(と思う)。

たとえ確率が低くても遭遇するときには遭遇する。遭遇しないときには遭遇しない。1か0かだ。

そんな中にあっても、人生が自分の意思や行動で変わるのは当然だ。病気を治すために医師を選ぶことだってそう。

偶然イコール運命ではなく、運命と意思・行動のコラボレーションによってこそ、あれほど不思議な偶然が生み出されるのだろう。

更年期対策から1か月

婦人科でディビゲルと当帰芍薬散を処方してもらってから、1か月以上が過ぎた。薬を使ってみての感想は、

「なんとなく良いかも。」

ディビゲルをつけた翌日、おりものに気づいた。卵巣を摘出してからまったくなかったので、その変化に驚いた。気になっていた起床時の指のこわばりは、気づいてみたらいつの間にか「指が板」状態から、第一関節が変かなあという程度になっているから、もしかしたら良いかもしれない。

汗っかきとか、手足が冷たいとか、微妙に疲れるとか、下痢や便秘になるといった、更年期なのか体質なのか、気がたるんでいるだけか、はたまた術後の何かなのかまるでわからない症状については、今のところ改善の実感はなし。先日は下痢と便秘が治ったかもと喜んだが、一時的だった。

ひとつ、実感しているのは「気持ちが元気になってきた」。本当。これは期待外というか、これ以上ハイになってどーするよ?と思うけれど、血の気が多くなったか、しばらく忘れていた「腹を立てる」という感情も戻ってきたようだ。すっかり煩悩がよみがえってしまった。

薬は1か月分の処方だったので、先週末に婦人科にまたもらいに行った。

前回と同じ先生が「その後どうですか」と、マスクをもごもご動かしながら私に聞かれた。

「はい、なんとなく良い感じがします。」

「そうでしょう、そうでしょう。漢方と併用するのが良いのです。」

またマスクをもごもごさせながら、そう仰った。漢方がすぐに効果があるとは私には思えないが、もしや先生はそう仰って私を暗示にかけることで「病は気から」を実践しているのだろうか。

「塗り薬でかぶれたりしませんでしたか。」

「しませんでした。あの、先生、漢方のほうなんですけど。」

前回聞き忘れた、胃を切っているけれど当帰芍薬散は大丈夫か、また、よく飲み忘れて1週間分くらい残っていることを話した。大丈夫でしょう、飲み忘れのほうは1日1回になった日があっても構わないと仰った。

1か月後に来院するのは面倒なので、多めにくださいと言うと、

「では2か月分出しましょう。」

ということで2か月分をもらうことになった。漢方もしっかり2か月分あり、次は少なめにもらったほうが良いかも。

偶然の美容師

ひたすら便通報告になっているので、たまには違う話題を。話は去年の4月後半に遡る。

腹膜偽粘液腫がわかった婦人科手術を終えて退院し、家に戻ると、すぐそばに美容院がオープンしていた。

髪については思うことがあった。退院前に婦人科の先生から、今後は外科でポートを埋め込んでの抗がん剤治療となると聞き、言われた治療方法についてネットで調べ、脱毛は免れないと思った。(後に外科の先生から実際に示された服薬による抗がん剤治療は、それほど抜けないというのがわかったが。)

私のいた病室では、抗がん剤治療をしている人もいた。長く入院しているであろう彼女はとても明るく感じの良い人で、いつもお兄さんだか彼らしき人がお見舞いに来ていた。ときどきカーテンの向こうで嘔吐しているようだった。大変だろうに病室でもそういうそぶりを見せず、看護師さんを思いやる人で、かわいいスリッパと帽子がチャーミングだった。

私もあんなふうにニコニコしていられるだろうか、いや、ニコニコしなくちゃ。帽子かぶってニコニコしよう。イケイケなカツラかぶってガッツリつけまつげするのもいいかも? 病院内に置いてある、カツラや帽子のパンフレットを集めたりした。

毎日お掃除にきてくださる係の方が、「あまり患者さんと話してはいけないのだけれど」と前置きしながら教えてくれた。「私も抗がん剤治療したことがあるんですよ。治療前にベリーショートにしておいたほうが楽よ。そうでないと、落武者みたいになっちゃうからね。大丈夫、髪はまた生えるし、きっと元気になりますよ。」

髪はまた生える。でも、治療中は生えない。自分の長髪がいとおしかった。それで、しばしの間でもきれいにしておこうと、美容院に行くことにした。いつも会社帰りに銀座の美容院に行くのだけれど、退院したばかりでそこまでは行けない。そこで、新しくできたその美容院を予約したのだった。

「いらっしゃいま、あわわ〜〜〜!」

「うわわわ〜〜〜!」

私たちの叫び声に、店内にいる人全員が何があったのかと振り向いた。な、なんと、銀座の美容院で私を担当してくれていた美容師クンが私を迎えたのである。彼も私も本当に驚いてしまった。

「マジ?」

「なんでここにいるのよ。」

「先輩が作ったこの店に変わったんだ。ちょっと待って、、、オレ、担当するから。」

銀座に行かずして、いつもの人にお願いできるとは。ワタシの運はなんだかすごい。

あまりの偶然から、自分のそのときの状況を彼に包み隠さず話した。配慮してもらえて良かった。というのも、洗髪台で仰向けになって顔にお湯がかからないよう布をかけられたとき、突如パニックを起こしてしまったのである。1秒でも早く出たかったICUを思い出し、恐怖が襲って来たのだ。あのときは自分でもそうなるなんてと驚いた。

「髪ってさ、1か月にどれくらい伸びるの?」

「1.2cm。」

「ふーん。そんなワケで、次に来たときにはベリーショート、頼む。」

「わかった。カッコ良くするよ。」

次に美容院に行ったのは、岸和田の病院に入院する前。米村先生の治療法はベリーショートにする必要がない。前の入院では髪が長過ぎて不便だったので、雰囲気は変えずに少し切ることにした。

「ベリーショートにはしなくても良くなったから。切りたかったかもしれないけど。」

「よかったー。オレ、pomさん来たら、どんな会話すればいいんだろうってずっと悩んでいたんだよ。」

彼がホッとした顔を見せた。

「一応ロングと呼べるギリギリまで切ってください。」

ロングにこだわってのへんてこオーダーをする。私はあれから、ロングヘアが似合わなくなる歳まで長いままでいようと決めたのだ。

彼とは親子ほど歳が違うのが良いのか、かえって気楽に話せる。私ばかりが話すのでなく、彼が彼女の話題をすることもあるし、話題は広い。

「髪は1か月に1.2cm伸びるって言ってたじゃん? 手術で剃毛するでしょ。それでわかったんだけど、下も同じなんだよね。」

「ぶひひ!」

「美容師さんとして知っていても悪くない知識じゃない?」

「どうかなー。接客で使うには、ソレ、お客さんを選ばないとセクハラになっちゃうなあ。」

「そーかもねー。」

そんな会話もありーので、髪をやってもらうのである。

カットだけでなくカラーもお願いしているので、1か月に1度は行くようにしている。岸和田の病院を退院してから美容院に行ったときは、彼に「小さくなっちゃったなあ」と言われた。本当に小さくなってしまった。昨年末に言われたのは、

「白髪増えたよなあ。ま、仕方ないよな、今年はいろいろあったから。」

うんうん。「でも可愛く仕上げてよね。」

「はい、あなたを素敵にするのが美容師だからね。」

BT diary と VT day

2月になってから便通が毎日あるいは1日おきになったと大喜び。BT(ベンツー)diaryをかかさず付けているので(と言っても手帳にマークを記入しているだけ)、以前との変化がわかって面白い。

少なめなのと、なぜか出してからトイレに行きたいような腹痛がしばらく続くのが気がかりながら、下痢もしないし、ゲップも人前で目立たない術を身につけたことだしと友人に「ちょー元気!」と延ばし延ばしにしていた会食OKの連絡をした矢先。

2日間出ず、出たかと思ったらまた下痢に。でもスッキリしたのでまんざらでもなく。そして翌日の2月14日。

家に帰って来て、夕食の支度前に一息つこうとコーヒーを飲みながらパンを食べたところ、なんだか変になってきた。パンはほんの少ししか食べていない。なのに膨満感が襲って来たのだ。

うずくまったり、横になったり、何しろ苦しい。こんなときに大地震が来たら絶対助からないと思う。そして気持ち悪くないのに、何度も嘔吐した。さきほどのパンらしきものが出て来るのは理解できるが、その後にいっぱい出て来たものは一体いつのものなのか?

3時間くらい苦しみ、すっかり吐き出しましたと、潮干狩りのアサリみたいに口半開きでしゃがみ込んでいると、腸が右から左に向かってぐるんと動き、ややあってガスが出た。そして痛みが消えていくのがわかった。

腸閉塞の一歩手前? 何か詰まっていたのかな。まったくもって意味不明なお腹。

そんなこんなで、バレンタインデーの夜は更けて。どうでもいいけどVT dayなんて略し方はないよなあ。

飛行機にて

5日に夫の実家で法事があり、前日から大阪へ。関空から行くと便利なところなので、いつものように飛行機で行ったのだが、困ったことが。

便秘で飛行機に乗ると、お腹が張ってガスが〜〜〜!

トイレで心おきなく、と思うけれど、自分は窓際のA席。短いフライトで、B席の夫はともあれ通路席の知らない人を立たせるのは申し訳ない。機内ビデオのタイムマシーン3号のコントで気を紛らわせつつ、がんばれお腹、負けるなワタシなのだが、我慢できずにこ〜っそり。。。

C席や前後に及ばないくらい飛行機の換気が優れていると信じているから!!

そんなわけで関空に着くや、トイレに直行しましたとさ。

落ち着いてみれば、思い出深い関空。入院するために一人やって来て、しばらく食べられないだろうとカツカレーを食べたこと。退院して甥夫婦が見送ってくれたこと。。。あれから半年、元気で家の用事で来られるようになったのだから、すごいものだ!

術後2度目の検診

28日の土曜日は、池田病院で米村先生の診察だった。術後2度目の検診だ。結果は問題なし! 次回検診は6か月後となった。

今回も弟夫婦が行ってくれることになったので(ワタクシとしては、彼らのレクリエーションとしてムリヤリ定着させたい魂胆)、朝、弟夫婦の家に行き、そこからの運転を弟にしてもらった。

弟の家に着くや、携帯に母から電話が。「震源地はどこなの? 昨日テレビが壊れちゃって、情報がわからないのよ。」

何を言っているのやら。と、カーラジオから地震情報が流れているのに気づき、そのまま母に伝えた。高速道路を走っていて全然気づいていなかった。

弟たちが車に乗り込み、再び東名へ。地震のため50キロ規制。だんだん富士山が大きくなってきて、 地震は大丈夫かな、などと思ったりする。そういえば4月、入院するため、義妹が私を乗せて運転してくれた日も結構揺れたっけ。。。

9時過ぎに池田病院に到着。

米村先生の患者さんは受付を済ませると、病院の奥というか右側にある健康管理センターの待合室で待つことになる。腹膜偽粘液腫以外の腹膜播種の患者さんもいる。待っているうち、患者支援の会でお知り合いになった方々のお顔も見つけ、いろいろお話しした。

会で声をかけてくれ、便秘問題で意気投合したHさんが、入院時に同室だったという二人の患者さんのことを心配していた。その方たちは関東在住の腹膜播種の患者さんで、お一人は前回の検診時に「もうここまで来られないと思う」と話されていたという。Hさんは彼女たちの姿が見えないのが気がかりのようだった。

おしゃべりの合間に血液検査とMRI。弟夫婦も私もHさんたちからキャンディを頂戴し、空腹をなだめる。次は私もお菓子を持ってこよう。

お昼をとうに過ぎ、3か月ぶりの診察。待ち時間は長くても、先生がここまで来てくださるのだからありがたい。義妹と一緒に診察室(というか、本来は応接室らしい)に入った。

「どうですか、調子は。」

先生はパソコンに向かって「どうですか」と、そして椅子をくるりと回しながら「調子は」と仰り私をご覧になる。デジャブかと思うくらい3か月前と変わらない動作だ。

今回は私の顔を見るなり「あ、アンタね、ぶひっ」みたいな顔をされたので、ちょっと嬉しかったりして。先生が診るたくさんの患者さんの中で、たぶん私は軽いほう。サクッと退院したから(と言っても1か月いたけど)、印象も薄いことだろう、顔など覚えてないだろーなーと思っていたのだ。

「おかげさまで元気です。けど、便秘気味で、腸が腫れている気がします。」

MRI画像から左側が腫れているとのことだが、

「どれ、お腹見せて。太った?」

「少し。」

良し、という感じで先生はニヤリとすると、触診し、

「だいじょーぶ。」

出ました、だいじょーぶが。

血液検査の結果も、先生がチェックするだけで、今回も数値を聞くことはしなかった。同じ病気で友達になったMさんが言ってたな、「米村先生がだいじょーぶって言うならだいじょーぶなんだよ」って。

先生はきっと、細かいことに一喜一憂せず、おおらかでいるほうが体に良く、患者に無駄な情報を伝える必要はないという考え方なのだと思う。

「ありがとうございました〜。」私たちは部屋を出た。

時計を見ると2時。Hさんたちに挨拶し、会計をすませて病院を出発。食いしん坊の弟が持って来たグルメ本で、この時間でも開いている近くのお店を探し、遅いランチをとった。ランチタイムが3時閉店で、ゆっくりできなかったのが残念。

帰り道、東名に乗ってしばらくするとお腹が張って来た。

「うぐぐ。。。足柄あたりで休憩してくれない? ガスが出そうなんですけどぉ。」

「ガスなら窓開けてしてください。このままもう少し走ったほうが良くないですか?」

いつも天気が悪い御殿場あたりはそのとき、雪になっていた。義妹の言う通り、雪がひどくならないうちにこの近辺を脱出したほうが良さそう。しかしガスだけじゃないかも?だったので強制トイレ休憩。なのにガスのみで終わったので、仕方ない?から富士山の形をしたメロンパンやら何やら買ってしまった。

東名は途中で降り、私たちは実家に寄った。壊れたというテレビの調子を見なければいけない。弟が見てみると、なんのことはない、リモコンのボタンを間違って押していただけだった。年寄りに今時の家電は難しい。

帰りも弟夫婦の家まで運転してもらった。弟が運転中、米村先生のことを「すごい先生だよなあ」と感心しながら先生の真似をするので、げらげら笑ってしまった。

弟たちと別れ、帰宅すると、特に何をしたというわけでもないのに疲れてしまい、夕食のしたくをする気力なし。仕事から帰って来た夫が近くのスペイン料理店に行こうというので、昼がイタリアンだったんだけどなあと思いつつ、夫に私の分も食べてもらえばいいやと出かけることにした。

店に入ると、貸し切りパーティの模様。と思ったら、案内された。いくつか料理を頼み、私はちょぼちょぼ料理をつついた。

20数人のパーティには、中学生たちもいた。聞けば彼らは同級生で、そのお父さんお母さんとともに、ずっと前から親交を深めているとのこと。その日は、一組のお父さんお母さんの結婚20周年をお祝いする会だった。

彼らの持ち込みのケーキを、なんと私たちもご相伴にあずかってしまった。

お祝いされたお父さんが、とくにこどもたちに向けてスピーチをした。

「20年と一言で言うけれど、お前たちが生まれてないときからのことです。そしてこうして今日、お前たちみんなとすばらしい時間が共有できたことに感謝します。」

最後に皆立って、「スペイン料理なのに?」なんて言いながら一本締めで彼らのパーティはお開きとなった。私たちも横で素敵な時間を共有させてもらい、ケーキともどもオイシかった。袖振り合うも他生の縁だ。

締めも良い、長い1日は終わった。

追記:翌日、Hさんから丁寧なメールを頂戴した。その中にこうあった。

「昨日お話しした方が亡くなり、改めて、生かされている事に感謝しています。」