四国の彼女

岸和田の病院で手術し、一般病棟に移って間もない頃、談話室で私より若い患者さんと知り合いになった。名刺交換するがごとく、手首についたネームタグを見せ合う。

「私は横浜から来たの。」

「近くていいわね。私は四国だから遠くて。」

私のほうが遠いんじゃない? そう思ったが、彼女の顔があまりにも憔悴しきっていたので、そのまま話を続けた。(その後、他の人と話したときにも神奈川県の横浜と思ってもらえないときがあった。その人が言うには、神戸に「よこはま」があるという。調べても見つからなくて、今のところナゾ。)

「私、米村先生の手術を受けたの。」

「私もよ。手術して1か月経つんだけど、熱が下がらなくて。」

それで体がだるくてたまらず、ベッドで寝ているのも辛くて談話室の椅子に座りに来たのだという。

「何の病気?」

私がそう聞くと、彼女は「たぶん、あなたと同じよ」と言った。

そのときはそれしか話さなかった。確か7月に入ったばかりの頃で、彼女は首にタオルを下げ、身の置きどころのなさそうな様子だった。術後のつらさで落ちくぼんでしまったのだろう彼女の目を、その後、私は何度も思い出し、正直、怖かった。私もあなたと同じようになるの?

再び彼女に会ったのは、それから2週間は経っていたと思う。レントゲン室から出てエレベータに乗ろうとしたところ、彼女が入れ替わりにレントゲン室に来たのだ。

「久しぶり。」

声をかけたら、彼女がいきなり言った。「私、明日、帰るの。」

「え? だって、あなた、今。。。」

彼女は車椅子に乗っていて、介助スタッフに押されて来ているというのに?

「四国の病院に転院するのよ。」

普通、別れの言葉は「元気でね」だったりするけれど、なんて言っていいかわからなかった。「そう。。。」としか言えなかった。

今、彼女は退院して元気でやっているだろうか。どうか、元気になっていますように。すっかり元気になっちゃって生活していますように。

忘れないうちに

人間というのは良くできている。すごく辛かったはずの入院生活も、良いことだけ思い出して、辛かったことは忘れつつある。その証拠に、退院時は「ぜーったい、もう手術はイヤだ! だから絶対、再発しないぞ」と心に誓っていたけれど、今は万が一再発したらまた取ればいいんだし、とずいぶん心持ちが変わっている。

忘却万歳。でも、忘れないうちにいくつかとどめておきたいものもある。他人が見たら、取るに足らないことなんだけど。

逆もらい泣き

日曜日は、友人夫婦の家にも電話をした。署名のお礼と病気のことを話さなければと思ったからだ。

友人夫婦には去年の12月以来会っておらず、特に連絡もしていなかった。そんななか、同窓会の実行委員の一人が職場でも署名を集めてくれて、その職場に彼らがいたものだから、何がなんだかな感じで驚かせてしまったのである。

最初にしばらく旦那さんのほうと話した。それから彼女と。

彼女は、最初の手術をしたときの話で「ええーっ!?」と絶句して泣き出してしまった。その後、彼女はずっと電話口で泣いていた。

「pomさんがそんなだったのに、私、知らなくて。。。」

そう言うのがやっとで、泣いて泣いて泣いた。

そんな、、、だって教えてないもん、知らなくて当然だし、と言おうと思ったのに、もらい泣きしてしまい言葉にならなかった。

お向かいさんのその後(2)

お向かいさん親子はどうしているだろう。退院したらメールの一つもくれるはず。コメントを入れてくれたものの、そんな話が出てこないし。どうも気になり、日曜日に娘さんに電話させていただいた。

なんと、お向かいさんは転院したという。退院じゃなくて? 転院??

手術の合併症を治療しなくてはならないのだ。簡単には治せないらしい。

便秘だ下痢だとわめきながらも元気でやっている私がいる一方、私の一週間後に手術されたお向かいさんが、いまだ病院でつらい日々を送っている。他人事ではない。切除した部分は違うけれど、私にだってそのおそれがあったわけだから。

合併症は偶然なのだろうか。起きるべくして起きたのだろうか。そんなことを考える考えないに関わらず、今、合併症で苦しんでいる人がいる。手術以前には、そのおそれがあると分かってもそうなるかどうかなんてわからない。

合併症以前の話として、もし自分がこの手術を受けなかったら?と思うことがある。抗がん剤治療をしながら、あと何年生きられるだろうとビクビク過ごすのはやはり嫌だ。しかし、もしかしたらあっちこっち臓器を取らなくても、抗がん剤がなんだか効いちゃって20年くらい平気で生きられるかもしれない。経過観察しているうちに、偽粘液腫が消えてしまった人もすごく稀だけどいるっていうし、自分にもその可能性があるかもしれない。。。

でも、どれも「かもしれない」だ。

「あなたは手術しますか」

↓     ↓

「Yes」  「No」

こんな絵?が頭に浮かぶ。これまで生きてきて、時々、この図が浮かぶことがあった。誰もが、いくつもの戻れない Yes or No を繰り返して生きるのだが、今回の私の Yes or No はあまり迷うことなくYes で進み、正解だったと思っている。

お向かいさんはどうだろう? 本人から聞いていないからわからないが、今の状況では少し悩んでいるかもしれない。というのも私たちの病気は、偽粘液腫がお腹に充満したり臓器を圧迫していなければ、それなりに元気で過ごせたりするのだ(違う人もいるかもしれない)。もちろん、月日が経つにつれ手の施しようがない状況になる可能性は高まるけれど。

将来的に患者が悩むことのない最良の治療法が見つかるのを望むが、近い将来として、もっと治療できる病院が増えるとか、いろいろな選択肢の幅が広がったら良いなと思う。

それはいずれの話なので、今はお向かいさんの「想定外の落とし穴にはまっちゃって時間かかったけれど、Yesで正解だったワ」という言葉があとどれくらいで聞けるかなと、待っているところだ。

同窓会で署名のお願い

「もしもし。」

「おう。いまどこ?」

「実家に着いてる。」

「んじゃこっち来いよ、まだ時間あるし。」

同窓会の実行委員であるS君に電話すると、会場が大盛り上がりに盛り上がっているのがわかった。50歳を迎えるこの年にと企画された中学校同期の同窓会は、150名以上が参加と聞いていた。S君が電話の向こうで「pom(仮名ダヨ)が今から来るって!」と叫んでくれている。同窓会には間に合わないだろうと2次会から参加予定だったが、急遽、同窓会にも顔を出させていただくことになった。

本人不在でも難病認定嘆願書への署名を呼びかけてくれることになっていたので、ありがたい気持ちと久しぶりに皆に会える嬉しさ、そして「珍しい病気になっちゃって、どんな顔をして皆に会うべきか?」という複雑な気持ちを抱えて、会場へ向かう。

入り口で、仲良しのMさんが待っていてくれた。「pomが来たよー!」

いきなり前に導かれる。

「皆、署名してくれたんだよ、何かしゃべって」

(今、その時のことを思い出して、涙がこぼれてきた。あたふたしてしまって、あのときは仲間の温かい思いやりと声援をしっかり感じるまでに至っていなかった。)

どんなことを話したか、実は覚えていない。まともなことは話せていないと思う。

あとで、S君に「難病指定お願いしている本人がこんなに元気な雰囲気で、皆、どう思ったかなあ」なんて聞いたりした。S君は「元気な姿を見て、皆、安心したと思うよ。物故者もいるからなあ」とつぶやいた。

盛況のなか、一次会はお開きになり、二次会へ。クラスごとになっていろいろと話をするなか、T君が私に言った。

「話を聞いてると、pomちゃんは神様に守られているんだと思う。長く生きて、社会の役に立てってことなんじゃない?」

良いこと言ってくれるじゃん! もー、泣けてくる。

この日は頭の中がオーバーヒートしそうな日だった。病気のことと35年前の仲間のこと。改めて人生を見つめ直す日にもなった。

同窓会のおみやげに頂戴したバラ。今、皆のそれぞれの家にも咲いているんだろうな。

みんな、ありがとね〜〜。

退院後、初の受診

一昨日、昨日と下痢で、ついに体重がピッタリ39kgになってしまった。先週の土曜日、頑張りすぎたかも。退院後、初めて米村先生に診ていただく日でもあり、中学校の同窓会でもあったから。

土曜の朝、弟に教えてもらった時間よりはるかに遅く、家を出た。途中、トイレ休憩でのんびりしたり小さな事故渋滞もあったが、問題なく10時前に池田病院に着いた。先に来て待っていた弟夫婦が、雨が降りしきる中を誘導してくれたので助かった。病院の駐車場がいっぱいで、停めるのに苦労したのだ。

受付をすませてしばし待つと、別の待合室に誘導される。誘導してくださったスタッフの方に、私の診察は41番目だと告げられた。ちなみにその日は60人もの患者さんが、米村先生の診察してもらうために来ているとのこと。

血液検査がすんで、後は先生の診察待ち。途中、弟たちがコンビニにお昼ごはんを買いに行ってくれた。他の患者さんたちは待ち時間も慣れているのか、おしゃべりしたり、眠っていたり、持ってきたお弁当を食べたりしていた。

病院で受付をしてから5時間。やっと私の番が来た。弟夫婦にも一緒に入ってもらった。

「どうですか、調子は。」

「はあ、まあまあヨイです。」

受け身的な患者のままでいると受診後の満足感?が得られない、というのは学習済み。失礼な言い方で恐縮だが、目の前の先生はへらへら笑ってしまっている。「あなたはヨネムラ的に問題なし」の合図だ。私もつられてへらへら笑ってしまう。が、このままではなんだかピンと来ないで終わってしまう。

今日も聞きたいことは紙に書いて来た。それを手に質問する。「右脚の付け根一帯の皮膚が手術後から感覚がなくて、最近はビリビリ痛いことがあるんですけど、治りますか? それとも諦めろ、ですか?」

「それは神経が切れたんだ。諦めたころに治ります。」

「あき、ら、めた、ころに、治る、、、と。えっと、次の質問は。。。」

という調子で伺ったことは、再発の可能性は4%(前に伺ったのより下がっている!)で(ちなみに悪性の場合の再発率は40%とのこと)、再発した場合でも完全切除できているからまた手術すれば良く、20年生存率が下がるわけではない。下腹部がちくちく痛むのは開腹手術後によくあることなので気にするな。インフルエンザの予防接種は「OK。してください」。集団検診などでバリウム飲んでも大丈夫。。。

だいたいがいつも「OK大丈夫」な返事である。米村先生との会話は、どこかいつも低反発クッションにグーを突っ込んでいる感触だ。

引き続き抗がん剤治療はしなくて良い、次回は3か月後でMRIをと言われ、退院後初の外来受診はほんの数分で終わった。

今思えば、腫瘍マーカーの値でも聞いておけばさらに満足度がアップしたかなという気もあるが、問題なしなんだから、ま、いっかとも思う。なにしろその日も先生の患者さんであふれていた。OK系患者の私よりも、そうでない患者さんに時間は費やされるべきである。あまりにユルいムードでの診察で、弟たちもぽかんとしていたが、「あの」米村先生が間近に見られたのは興味深かったらしい。

あとで弟が私に言った。

「待っている時、なんとかエスワンを何mgに増やして、、、って話している人たちがいたよ。」

「TS−1。抗がん剤の名前だね。」

「おねえちゃんは軽いってことなんだね。」

「まあね。」

弟が嬉しそうな顔をした。そこで初めて、結構心配してくれていたのだと知った。今さら遅すぎか。。。もしかすると、自分より周囲が深刻に受け止めているかもしれない。その日ののち、実家にちょっと寄ったとき、親に診察の報告をしなかったのだが、後で弟から「池田病院の診察の結果を聞いていないと言われたので、経過はすこぶる良好と報告しておきました」というメールが来てしまった。そっかー、父も母も私には何も聞かなかったけど、気になっていたんだわ。。。

次回のMRIの時間を予約し、会計をした。待合室には11月20日にある腹膜偽粘液腫のシンポジウムのポスターが貼られていた。衝撃的な写真付きだ。。。写真の患者さんはさぞ苦しかったことだろう。私なんか「太ったな」程度のお腹の出具合だったけれど、それでも結構苦しかったもの。

病院を出てから、3人で近くにあるキャンディカフェという店に入った。お昼は少ししか食べなかったので食事も頼んだが、このあと車で移動することや同窓会の2次会に出ることを考えて、皆でシェアにしてもらってほんの少しだけにする。

カフェを出て、義妹の実家に戻る弟夫婦と別れた。予想通り!の良好な結果を胸に、霧深い東名を次の予定を気にしながら走った。

 

 

桂こさんじかん

明日は退院後初の外来の予約日。このところ休みなく動いて疲れてしまったため、今日は会社を休んで明日に備えてしまった。

月に一度、米村先生は静岡の池田病院まで出向いて診察してくださる。明日がその日だ。関東近辺の患者にとっては関西まで行かずにすみ、とてもありがたいが、多忙なうえに休日も回診に来る熱心な先生なので、かえって先生の体が心配でもある。

さて、池田病院は初めてなので、所要時間がぴんと来ず。そんなところに弟から「明日、何時に病院に行きますか」とメールが来た。以前の話では弟夫婦と一緒に行って、終わったら近場で遊ぼうなどと話していた。その後、弟に休暇が取れて夫婦で奥さんの実家に今日から泊まることになったのと、私がとっとと帰って中学校の同窓会の2次会に出たいということで、病院現地集合、ほどほどに解散、という話になっていた。

弟の奥さん、大学病院に入院中はいろいろ世話になった義妹のことだが、彼女の実家が病院に結構近いのである。なんとも不思議なことだ。大阪の病院は夫の実家の隣町だったし。

で、予約時間は10〜11時と弟に伝えたついでに、「10時に着くには何時に家を出たら良い? 家から厚木インターまでは小1時間と計算して」とメールすると、返信が。

「厚木から沼津インターまで小1時間。
東名は渋滞があると未知数だけど、明日は連休ではないし、天気も良くないので大丈夫でしょう。
沼津インターから病院までは小30分。
合計、小2時間半。小3時間見れば確実。」

絶対、笑いを取ろうとしているメールだコレは。軽くスルーしてやりたいが最近は世話になっているので、小ウケしておく。

でも、なんで、弟たちと病院で集まらなきゃいけないのか、実のところよくわからないのだが。間が持てるから、いっか。

ホスピタルネーム

会社移転をして新しい登記簿謄本を取って来たので、銀行に持って行った。とあるサービスの変更書類を記入するとき、担当者名の欄のところで止まる。担当者は私である。今さっき、本人確認のために見せた保険証には当たり前ながら本名が記載されている。

「あのう、仕事上では旧姓を使っているんですけど。」

「ビジネスネームを使われているのですね。でしたら、そちらをお書きください。」

へー、ビジネスネームって言うのか。なんかカッコいい〜。(そしてカッコいいワタシを想像したりする。顔はモザイク。)

私は、実は3つの名前を使い分けている。ビジネスネームでしょ。それから趣味が高じての芸名?っつーか。そして本名。

本名の私はネット検索しても他人しかヒットしない。クレジットカードのサインや役所関係で書くことがあっても、呼ばれることは少ない。と思ったら、最近はずっと呼ばれていたんだった。病院で、である。さしずめ私の本名は、ホスピタルネームだな。(ちなみに本名は、pomです。なワケないじゃん。)

体がついてきません。

最近のワタクシは。。。

1)手術してからずっと続く症状なのだが、右の足の付け根近辺の皮膚が麻痺している感じ。その部分が最近、びりびりと痛いときがある。なんで?

2)1か月くらい前?に始まった下腹部のちくちくした痛みが、あまりなくなった。

3)朝の指のこわばりが良くなって来た気がする。ただ、両手指の第二関節と指の付け根の関節の動きがどうもスムースでない。ピアノの練習でもするとか?

4)ここ数日はやや下痢気味。日曜日は出かける用事があり、着るものがないので病気後初めて着物で行ったのだが(これまで部屋着の延長みたいな格好ばかりだったから、シャバに正式復帰した気分)、トイレに間に合わないとコワイので、食事抜きで出て行き何も食べずに戻って来た。昨日もお腹がグルグルしていて外出してもあちこち回らず、休憩に会社に戻ってくる有り様。

5)先週、電話中に急に目の前が真っ暗に。初めての経験だった。すぐ治ったけれど、もし運転中だったらと思うと恐ろしい。

6)ちょっと疲れ気味。

☆ 体調不良を並べ立ててしまったが、退院直後に比べるとその回復ぶりはハンパではない。人に会うと、あまりの元気っぷりに皆「もっと病人っぽいかと思っていた」と口を尖らせるほどだ。しかし最近は自分の体調を過信してしまっているところがあり、どうも体がついていっていないようである。

トイレで挙手

新しい事務所は入居前にトイレを改修してもらったので、新しくて気持ちが良い。設備もイマ風で、便器はオート洗浄、手洗いは手をかざせば水が出てくる。照明だってセンサーが感知して点く仕組みだ。

すごいな〜とやたら感心したが、使っていると困ったことも。じっと長居していると照明が消えてしまうのである。

今は3分で消灯するようにセッティングされているらしい。昔、読んだ小説の1コマを思い出してしまう。内容はすっかり忘れてしまったが、流れ作業のような仕事場で女性従業員がトイレに入ると、滞在時間が28秒以内と決められていて、監督者がチェックするという場面があったと思う。安部公房の小説だったろうか? わからない。

3分消灯だと、生理現象まで会社が拘束しているような気分。そこで管理会社に連絡して、少し延ばしてもらうよう依頼した。

トイレ滞在時間が長い私は、今は3分経つ前に「はーい!」とトイレで挙手したり、首を前後に振ってみたり。センサーを感知させて消えないように、お腹の痛さをおして密室でアヤシイ動きをしているのであった。