一つ終わり、新しい次へ(1)

【3 月16日】

カルチャースクールで月に一度、私はこども向け講座の講師をしていた。その講座が、というよりカルチャースクール自体が閉鎖することになり、この日が最後となった。

たかだか月に一度のことではあるが、休日の1日を長期にわたってこれに振り当てるとなると、それなりのやりがいなくして続かない。

そう。やりがい、ありました。「こども騙し」という言葉があるが、私が知ったのは「こどもは大人以上に騙せない!」である。ゆえに毎回の事前準備がまた重要で、こどもたちをガッツリ鍛えたつもりだけど、私もこどもたちから鍛えられてしまった。

楽しかった思い出はたくさんありすぎ、書き尽くせない。だから書かない、というのもナンなので、ドーでもいいエピソードを一つ。

Aくん(私の爪を触りながら)「爪伸びてるとプール入っちゃいけないんだよ。」

私「プール入らないもん。それに、わざと伸ばしてるんだけど。」

Aくん「だったら、付け爪にしたら?」

Bくん「きっと付け爪は嫌いなんだよ。先生はホンモノ志向だからな。」

***

そんなこんななオイシイ時間を共有した我々であるが、ぽんぽこ日記的に思い出すのは2年前のこの頃から数ヶ月のことである。

卵巣がん?で手術 → 腹膜偽粘液腫と判明 → セカンドオピニオン → 岸和田で手術、、、これらの時期、講座はどうしていたか。

「卵巣がんかも」な時期は震災と重なり、スクールが休講になった。その婦人科手術をした月は先輩に講師を代行していただいた。

翌5月もセカンドオピニオンの予約日と重なり、代行をお願いした。セカンドよりたった月に一度しかない講座を優先すべきではという思いもあり、悩んだ。が、米村先生の予約を逃すとまたかなり先になってしまう。自分の行く末を早い時点で決めるために、ここは休ませてもらおうと思った。

セカンドオピニオンまでの日は、今告白すれば、先輩に代行でなくすっかり担当講師となっていただき、私は辞めることを考えていた。だって、微妙な余命宣告をされ、生きてる間は抗がん剤治療、、、米村先生の手術には期待するものの、復帰の具体的イメージが湧かなかった。

けれども、こどもたちへ送った手紙は「元気になって戻ってきます」だった。嘘も方便。TVは「ぽぽぽぽ〜ん」ばかりだし、こちらの地では震災の直接の被害は少なくても、こどもたちには大きな不安を残したはずだ。そんななか講師も病気引退なんて、「まったくもー」に違いないと思った。

6月はとりあえず無事講師を務めてから岸和田に入院した。7月は入院中だったのでまた代行をお願いした。そして、なんと8月には復帰したのである。嘘の手紙を書いたつもりが、その嘘は嬉しいことに真になった。

とはいえ8月は腰に手を当てていないと立ち続けられなかったし、お腹の具合も今とは比にならないくらい悪かったから、よく行ったと思う。

こどもたちは見るからに痩せてしまった私を見て戸惑っただろうが、なにしろユーモアを解する彼らであるからして、無問題。

「おかげさまで痩せて美人になって帰って来ました。」

「グッジョブ。」

そして、「お父さんが重い物は持ってあげて先生を助けなさいって言ってた」などと言ってもくれた。彼らに助けられながら、復帰できたのである。

さて、休んだ期間中は先輩の先生方に大変お世話になったが、それにもましてお世話になり、またことのほか心配してくださったのが、スクール責任者のKさんである。

仕事のできるKさんは、受講者にも講師にも細やかな心配りができ、さらに「未来への文化を担う」意識を持ちつつ仕事をされていたように感じる。

そのKさんは私が休んでいる間、FAXやスクールのブログ等で、私の気持ちが上向きになるようにしむけてくださった。私は入院先や自宅でそれを見て、ニヤニヤして頷いて泣いて泣いて泣いてそして笑顔になった。

こどもたち&保護者の方から私への、励ましの色紙も送られて来た。Kさんのお膳立てであろうが、どれだけ嬉しかったか。これも、今でも何度も見てはニヤニヤして、、、泣くのである、ワタシは。

スクールがなくなるのは残念だが、たぶんKさんは他の仕事でもその能力を発揮されるだろう。

何かが終わってしまうのは寂しいけれど、寂しいと思えるほど良い時間でもあったわけで。

こどもたちも、Kさんも、私も、また新しい次の何かが待っている。

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