絶賛怒濤月間

とんでもなく長い展覧会が始まって1週間。

精神的に辛かったオープン数日前から腸閉塞の予感があって、食事は控えめに。オープン前々日に下痢をしてほっとしたのに(今や下痢はtomodachi)、翌日は膨満感で食べた苺を吐いたり、痛みで数時間横になったりで焦った。

期間中はどんどん展示替えしていく予定なので気持ちが休まらないし、仕事もしなくちゃだし、かなりハードだ。

無理しすぎかな、とちょっと思う。でも、今やらなくていつやるのか。やりたいことをダラダラと先延ばししていては、長く生きていたってしようがない、と思う。

私もずいぶん思いきりが良くなったよなあ。

ま、そんなこんななんだけれど、その後ずっとベンピ中。無理矢理でも出さないと〜〜〜。

春の風邪

ひいてる場合じゃないのに、風邪をひいていた。

10日くらい前から喉がイガイガで、来るのか〜?来るのか〜?やめて〜〜!キタ〜〜!って感じになり、数日前にピークを迎え、喉、鼻水のほかに頭痛もして困った。

このところずっと夜中まで地下工作(?)を続けていたが、さすがに昨日は耐えられずよく寝たら、少し治って来たもよう。ほっとした。

外は桜も満開。早いね。しかし今年はじっくり見る余裕がない。

草津総合病院 癌局所療法・腹膜播種センター

草津総合病院の腹膜播種専門外来の「お知らせ」に以下のことが出ていたので、そのままコピペ。

2013年4月からこのセンターの規模をさらに拡大し、癌局所療法・腹膜播種センターと改名し、腹膜播種のみならず、肝転移・大動脈周囲リンパ節転移に対する包括的治療を行なうセンターを目指して再出発します。初期研修を終了し、癌の局所治療+局所化学療法に興味のある外科医・内科医・婦人科医を対象と、年齢は問いません。熱意ある外科医を募集しています。

この文章にはリンク先がある。そのリンク先はこちら。
http://www.kusatsu-gh.or.jp/newhp/kensyui/latter/pdf/hukumaku%20dr.pdf

ん? ぱっと見る限り、岸和田の腹膜播種センターと中身が同じなんですけど。岸和田徳洲会病院のほうも、確か正式(?)には「癌局所療法・腹膜播種センター」だし。違うのは病院名。

どっちにしても米村先生がされているわけだから、同じでもおかしくはないと思うけれど。

なんだかよくわからないけれど、どちらも医師を募集していることだし、きっと、どちらの病院も今以上にパワーアップするってことなんだろう。

めでたい。

勝谷さんがそのうち、具体的なことを教えてくださるに違いない!(とブログにわざと記しておこうっと。)

呂先生の思い出

岸和田の腹膜播種センターのサイトについて記事にしながら、入院していたときに、米村先生、石橋先生とともに私を診てくださった、呂(ルー)先生のことを思い出した。

回診はいつも、廊下の遠いところから先生方の話し声が聞こえてくるので、そろそろいらっしゃるなと身構える。我が先生チームはオール英語で喋りながら来るので、すぐに分かった。

ガタイの良いオッサンたち(米村先生&石橋先生。す、すみませんオッサン呼ばわりで〜〜)の回診は嵐のようである。狭いベッドをひょいとずらし、ものすごい早さで「ドドドドーっ」と処置して嵐のように去って行く。そんななか一緒にやってくる呂先生は日本語が話せないのだけれど、その分、優しい微笑みをもって私たち患者に接していた。

オッサンではない呂先生の微笑みは、実にステキである(カワイイ系)。と思うと気になるもので、長く入院している同室の人に、どこの国の人か聞いてみると、韓国人だという。韓国人で呂という姓の人、いるだろうか? それで、今度は看護師さんに聞いてみると中国人だという。

どうもはっきりしない。だったら本人に聞いてみよう。だが、米村先生がいらっしゃる時は嵐状態で、どーでもよいことを話すのは憚られた。それで確か、胃の通りを検査するときに行ったレントゲン室でだったと思うが、とにかく米村先生がいらっしゃらない時に伺ったのである。

呂先生は台湾からいらっしゃった先生だった。

私が台湾に行った事があると言うと、どうだった?と聞いてくださった。それで、良かった、食べ物も美味しかったし、と言うと、呂先生はますます優しく微笑んだのだった。。。

退院日が決まってから、私は記念に先生方の写真を撮らせていただいた。カメラを持って来ていないから、iPadで写すことにした。

iPadを先生方に向けたとき、いつもは話さない呂先生が

「あ、iPad2!」

と小さく叫んだ。さすが若い人はiPad、それも「2」が分かるなあ。なんて思いながら、一度だけだけれど話したからこそ、気さくに反応してくださったのだと思い、嬉しかった。

「ドクター・ルーは国に帰ったらプロフェッサーになるんや。」

一緒にいらっしゃった石橋先生がそう仰った。

私の退院日よりほんの少し早く、呂先生は研修を終えて病院を去られた。最近、先生を検索したら、、、いらっしゃいました、台湾の病院に!(出して良いのかどうかわからないけれど、いっか〜。呂先生の微笑みを見たい方はコチラ!)

呂先生、お元気で、台湾の患者さんたちのために頑張ってください! 日本から応援しています。

もう1回、岸和田徳洲会病院 腹膜播種センター

前回「岸和田徳洲会病院 腹膜播種センター」について書いたが、言い足りないのでもう1回。

病院のそこのサイトから引用すると、「米村豊医師は2007年6月岸和田徳洲会病院に癌局所療法・腹膜播種センターを創設した。現在このセンターは世界で最も多くの腹膜の手術を行なっている日本最大のhigh volume治療センターである。」(「概要とこのセンターの背景・役割」の4段落目)とある。

ということで、新しく創設されたわけでなく、2007年からあったという。な割には、web上ではこれまでまったく出ていなかった(と思う)。

実際、私を含めてたくさんの患者がこの病院に入院し、米村先生の手術を受けているわけだから、今回、「より充実した体制になりました!」ってことだと勝手に推測している。専門医師を増員し、がっちりやっていきますよ〜、な。患者としては大歓迎である。

それにしてもこのサイト、やたら階層が深いのなんのって、都営大江戸線ほどじゃないけど、千代田線くらいの深さ。

岸和田徳洲会病院 → 診療科のご案内 → センターのご案内はこちら → 腹膜播種センター

ゼーゼー。

このサイトには、かつて米村先生がシンポジウムで「がんを光らせて切除する」と話され、またM.Hさんが爪楊枝必携と語っていた「アミノレブリン酸蛍光ガイド手術」(写真付きだよ!)や、「腹膜切除による完全切除率」ほかいろいろな面にわたり、最新の内容が掲載されていると思う。

(2013年5月26日追記:腹膜播種センターについて草津総合病院がメインとなるようです。草津総合病院 腹膜播種センター 副センター長

岸和田徳洲会病院 腹膜播種センター

な、なんと!

岸和田徳洲会病院に「腹膜播種センター」ができていた!!!

http://www.kishiwada.tokushukai.or.jp/link/html/sinryouka/sinryouka22.html

いままで全然、病院のHPに出てなかったのに。上記を見ると、HPの内容も充実。

米村豊先生、これからもがんばってください〜〜〜!

 

(2013年3月23日追記:次の記事にも詳しく書きました。「もう1回、岸和田徳洲会病院 腹膜播種センター」

一つ終わり、新しい次へ(2)

【3月11日】

会社で流れているJ-WAVEから「黙祷」とジョン・カビラさんの声がして、しばらく音が途絶えた。私も手を止めて、目を閉じ祈った。

あれから2年、「『もう』なのか『まだ』なのか」とラジオは言っていた。

2か月前に、知り合いからこんな話を聞いた。

東北にボランティアで出かけてみると、そこの仮設住宅は結露がひどく、眠るベッドさえグショグショになってしまうというのである。ほかにも、現地に行かなければ分からないこと、当事者でないと理解しにくいことなどは山ほどあるだろう。

「復興」と言えば言うほど、個人が置き去りにされている気もしないでもない。言葉の置き換えで解決するものではないが、一人一人の体温を感じる「再起」のほうが良くない? いや、「復興&再起」か。。。

それにしても「復興」しなければならないのは、何も東北に限ったことではない。日本中だと思う。もう、ず〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと、景気が悪かったんだよ? もう、ヒーヒーだ。景気が良くならないことには税収だって少ないわけだから。へっぽこながらも会社やっていると、いい加減、負のスパイラルから解き放たれたいものだと切実に思う。

・・・どんどん話がとっ散らかってきた。。。

今日のブログは景気の話ではない。今年の3月11日、私は何をしていたか、なのであった。

その日、私は会社を早めに出た。来月、個展めいたものをするので、そのDMハガキに使う写真を撮影するためである。

いや〜、生きてて良かったなー。2年前には想像もできなかったことだ。ええ〜いと思いきってカメラマンさんにお願いして、撮ってもらったもんね。

ついでに顔写真も撮ってもらった。以前は遺影用に、、、なんて考えたけれど、今は違う。今、この時の記念にだ。

せっかくカメラマンさんに撮ってもらうのだから、髪を調えたりお化粧し直したりしたかったのだれど、他にも関係者がいたりして、いかにも身繕いするのがやや恥ずかしく、結局、鏡をまったく見ずに化粧は崩れたまんま、髪はボサボサ〜で撮ってしまったのだった。。。ま、ある意味、いつもの私である。でも、レフ版立てたから、シミソバカスぶつぶつは消えてまひた。

一つ終わり、新しい次へ(1)

【3 月16日】

カルチャースクールで月に一度、私はこども向け講座の講師をしていた。その講座が、というよりカルチャースクール自体が閉鎖することになり、この日が最後となった。

たかだか月に一度のことではあるが、休日の1日を長期にわたってこれに振り当てるとなると、それなりのやりがいなくして続かない。

そう。やりがい、ありました。「こども騙し」という言葉があるが、私が知ったのは「こどもは大人以上に騙せない!」である。ゆえに毎回の事前準備がまた重要で、こどもたちをガッツリ鍛えたつもりだけど、私もこどもたちから鍛えられてしまった。

楽しかった思い出はたくさんありすぎ、書き尽くせない。だから書かない、というのもナンなので、ドーでもいいエピソードを一つ。

Aくん(私の爪を触りながら)「爪伸びてるとプール入っちゃいけないんだよ。」

私「プール入らないもん。それに、わざと伸ばしてるんだけど。」

Aくん「だったら、付け爪にしたら?」

Bくん「きっと付け爪は嫌いなんだよ。先生はホンモノ志向だからな。」

***

そんなこんななオイシイ時間を共有した我々であるが、ぽんぽこ日記的に思い出すのは2年前のこの頃から数ヶ月のことである。

卵巣がん?で手術 → 腹膜偽粘液腫と判明 → セカンドオピニオン → 岸和田で手術、、、これらの時期、講座はどうしていたか。

「卵巣がんかも」な時期は震災と重なり、スクールが休講になった。その婦人科手術をした月は先輩に講師を代行していただいた。

翌5月もセカンドオピニオンの予約日と重なり、代行をお願いした。セカンドよりたった月に一度しかない講座を優先すべきではという思いもあり、悩んだ。が、米村先生の予約を逃すとまたかなり先になってしまう。自分の行く末を早い時点で決めるために、ここは休ませてもらおうと思った。

セカンドオピニオンまでの日は、今告白すれば、先輩に代行でなくすっかり担当講師となっていただき、私は辞めることを考えていた。だって、微妙な余命宣告をされ、生きてる間は抗がん剤治療、、、米村先生の手術には期待するものの、復帰の具体的イメージが湧かなかった。

けれども、こどもたちへ送った手紙は「元気になって戻ってきます」だった。嘘も方便。TVは「ぽぽぽぽ〜ん」ばかりだし、こちらの地では震災の直接の被害は少なくても、こどもたちには大きな不安を残したはずだ。そんななか講師も病気引退なんて、「まったくもー」に違いないと思った。

6月はとりあえず無事講師を務めてから岸和田に入院した。7月は入院中だったのでまた代行をお願いした。そして、なんと8月には復帰したのである。嘘の手紙を書いたつもりが、その嘘は嬉しいことに真になった。

とはいえ8月は腰に手を当てていないと立ち続けられなかったし、お腹の具合も今とは比にならないくらい悪かったから、よく行ったと思う。

こどもたちは見るからに痩せてしまった私を見て戸惑っただろうが、なにしろユーモアを解する彼らであるからして、無問題。

「おかげさまで痩せて美人になって帰って来ました。」

「グッジョブ。」

そして、「お父さんが重い物は持ってあげて先生を助けなさいって言ってた」などと言ってもくれた。彼らに助けられながら、復帰できたのである。

さて、休んだ期間中は先輩の先生方に大変お世話になったが、それにもましてお世話になり、またことのほか心配してくださったのが、スクール責任者のKさんである。

仕事のできるKさんは、受講者にも講師にも細やかな心配りができ、さらに「未来への文化を担う」意識を持ちつつ仕事をされていたように感じる。

そのKさんは私が休んでいる間、FAXやスクールのブログ等で、私の気持ちが上向きになるようにしむけてくださった。私は入院先や自宅でそれを見て、ニヤニヤして頷いて泣いて泣いて泣いてそして笑顔になった。

こどもたち&保護者の方から私への、励ましの色紙も送られて来た。Kさんのお膳立てであろうが、どれだけ嬉しかったか。これも、今でも何度も見てはニヤニヤして、、、泣くのである、ワタシは。

スクールがなくなるのは残念だが、たぶんKさんは他の仕事でもその能力を発揮されるだろう。

何かが終わってしまうのは寂しいけれど、寂しいと思えるほど良い時間でもあったわけで。

こどもたちも、Kさんも、私も、また新しい次の何かが待っている。

老老介護

老紳士さんからまたまたお電話をいただいた。10月に私のテレパシーでお電話いただいてから数ヶ月ぶりのお声だ。

「展覧会の時期なのですが」と老紳士さんは仰った。

1年前のこの時期、老紳士さんの奥様が出品される展覧会を拝見しに行った。そのときの話をブログに載せたかったけれど、プライバシーにかかわるかもととどまった。

ご主人の老紳士さんとは、患者支援の会でお知り合いになってから何度かお会いしているが、同じ病気で同じ趣味の奥様とは、その展覧会で初めてお会いし、それきりお会いする機会を得ていない。

奥様は目鼻立ちの整った美しい方で、気品を備えていた。少しだけお話しし、どうしてそう言われたか忘れたけれど「良いこと言うわね」と私の肩をポンと叩いて、どこか江戸っ子的な活発さも垣間見せた。気難しい方かと思っていたが、まったくそうではなかった。

この日、電話をくださった理由は、今年は寒さも厳しく風邪を引きそうなので出品しなかった、とわざわざご連絡くださったのである。

老紳士さんといろいろお話ししているうち、老紳士さんご自身が夏からお体を悪くしているのが分かった。車で銀座でもどこでもいらっしゃっていたのに、それもかなわないという。

老紳士さんは驚くほど献身的に奥様を介護されている。いつも息抜きしたらどうかと申し上げるが「そうですよね」と仰るものの、そうはされていないようだった。

「介護サービスを上手に利用してはいかがですか? 毎日、ご飯の支度するのも大変でしょう。」

「そうですよね。少し、お願いはしているのです。でも、そういうのを使うのが後ろめたくて。」

「そんなことありませんよ。きちんと使って少し休憩しなければ、生活が続かないですよ。」

「そうですよね。わかりました。」

本当にわかってくれたかどうか。

でも、以前お話ししたことで、この日の会話から推測するに、1つだけわかってくれていたことはあった。かなりシビアな話だったんだけれど。どんなことかというと、悪性で再発がわかった奥様に対して、米村先生は半年後の診察予約を入れ、手術する時期についてはなぜか明言されなかったということについて。

言うべきかどうか迷ったのだが、私は言ってしまった。「ご高齢だし、かなり痩せてもいるし、手術は体力が持たないのでは? 手術したら痛いし苦しいんです。そんな思いをするよりも、今の穏やかな時間を二人で大切にしたほうが良いと私は思います。」

あのとき、老紳士さんは驚いた目をされた。言い過ぎたかなと思った。

穏やかな顔に戻った老紳士さんは、それからはっきりした声で「そうですよね」と仰った。

マーライオン

先週半ば、チョー・ヘイソク氏が久しぶりにお出ましになられた。

寄せては引く腹痛がどんどん増して来る。体を丸めてこらえているうち、吐いた。

吐くと少しはラクになるような気がする。と思ったら、さらにゴボっと来て吐いた。まるで弧を描くような勢いは、マーライオンみたいだ。。。

と例えてみても、マーライオンの現物を見たときは1滴も吐いていなかった。あの、美しくライトアップされて吐き出す姿は写真だけなのに、「みたい」ってねえ。

いつものように、病院に行くべきかどうか悩む。こんな寒い夜中に、それもこんな痛くて、這うように出かけられるのか。とりあえず朝まで様子をみよう。。。

痛すぎるお腹を我慢して明け方までは記憶があるが、いつの間にか眠っていた。目覚めたら痛みは消えていた。その後も便が出なかったので心配したけれど、2日後に出た。

そうそう、マーライオンは今また勢い良く水を吐いているらしい。こんなことにならなければ、吐いてるかどうかなんて気にもとめないというか、存在すら忘れてたわ。