何を気持ち良さGal(ガル)か
デザインが連れて行ってくれるところを、「本当はこうあってほしいところ」という風に仮定してみよう。
さて、デザインが万能だなんて思っていない。特に人間が施したデザインなどというものは怪しい。
着地点とか着地するっていう言い方をする。好ましいデザインて何か。
「すっきり納まる気持ち良さ」だと思っていた。一言で言えば。気持ちのいい事は嬉しい。ただ、何を気持ち良さGalかはひとそれぞれで、もちろん多数の共通項となっている部分も無いではないのだが。例えば自分のことを言えば、とんでもない混沌の中にあるひとひらや、背徳感にまみれたような部分にそれを感じる事もあるわけで、というかどんなもののなかにも何かしら見つけ出したいと思うタイプなので面倒だ。
デザインというのはその多数の共通項をさらに洗練させたり、そことはちょっとズレているポイントをミキサーに放り込んで取り込んでいったりするテクニックの事なのではないのかな。それは素晴らしい事だし、目指したい部分でない事も無い。どうしても違和感が残ってしまうのは、「多数の共通項」という部分に本当の価値を見いだせない自分がいるからなのだろう。
時には目隠しをして自由を奪った上で速い車に乗せてみたい、とかそういうこと。深夜、巨大な蜘蛛に頭上をゆっくり通り過ぎて行かれる時の気分を想像してみたり。