日本で聖火リレーが行われた。友達とチャットしながら久しぶりにテレビonPCを立ち上げて、また勇者によるネット中継などもあわせて、それを見た印象。
この件について、書かれていたブログ。
最後に、こういうこともあった事も記憶しておく必要がある。
チベットでの問題勃発には筋書きでもあったのかと思われるくらい、各国にとってタイミングが良すぎるような気がしている。もちろんそんな国々の思惑に振り回され痛い目を見るのは民衆であり、今回はチベットの人々だ。というか、長過ぎる時間、痛い目を見続けて来た。
そんな中、いつものオリンピックでは淡々と行われる(ように見える)行事の一つが、今回は強烈にクローズアップされている。
聖火が日本にやって来た。明日リレーランナーが走る。チベット問題では「普通の人」の声が目立つ。明日も何がしかのアピールがあるのだろうと思う。テロ餃子からチベット、オリンピックへの流れは絶妙で、言葉は悪いが飽きさせないよう良く出来すぎているんじゃないか。チベットの自治を勝ち取りたい人達にとってオリンピックは千載一遇のチャンスであり、中国にとってもひと騒動起こった上で、かねてから懸案だった案件を上手く治め、五輪も成功させれば旧態からの脱皮をはかることができる。西側も日本もそれぞれの立場を演じているようにすら見えてくる。ただ、落としどころを間違えればすべておじゃん。民衆は予期しない動きもするからなぁ。
日本政府というか、まあ上に立つ人達がここ数年求めていたのはある程度声を上げる民衆ではなかったのか。国の運営に大きな支障が出るようなのは困るが、ここまですっきりと押さえ込めてしまうとは思っていなかったのだろう。従順な国民は便利だけれども、手応え無しでは澱みが出来るばかりだった。他の国からは奇異の目で見られ、軽んじられる。そんなこんなやあるいはガス抜きの意味などもあって、もう少し立ち上がるべきところでは立ち上がってほしいという空気というか、そんな節はなかったか。
根拠もデータもないけれどもね、そんな妄想を抱いてしまう。ここ数日頭痛が治まらない事も妄想の原因かも。きっとそうだ、うん。
数日前に、急成長した某企業の社長が「休みたいなら辞めればいい」と言い放ったというニュースがあった。いつの時代だよ。なんていうか馬鹿社長と洗脳された社員たちという図が想像できて哀れを感じる。社員の給料もいくらかは上がった事でしょう。払った犠牲と釣り合いは取れたのかな。成長して突出し、その業界を独占牛耳る。そんなものそこの会社の幹部以外誰も求めていない。
チベットの次は国内問題でも「普通の人」は立ち上がり始めるのかもしれない。まるでそれを煽るような失政続きだし、上に書いたような経営者がまだまだ多くそう言う意味で旧態依然なのは中国だけではなく、むしろ日本っていう国なのだろう。
今も刻々苦しんでいるのかもしれないチベットの人たちのことを先ず想っていたい。姿がよく似ていて我々の精神のふるさととも言える人たち。(といわれている。確かに映像等の情報を断片的ながら昔から見ているとそんな気がする、だから)とても気になる。何か出来ないかと思って気持ちがザワザワしたのは正直なところだし、今もそう思っている。
ただ一方で、日本の東側に住んで情報の多くをインターネットから仕入れ、いろいろな角度からの見方がある事を知る時に、それならば客観的でいたいとも思う。911の時もそうだったけれども、一連の出来事には不可解な事象が無いではなく、様々な見解が出現したことを知っている。
ネットを廻っていて何経由だったか、こんなページを見た。
間違いなくぼくなどよりこの方面の知識は豊富な人が書かれているのは判るのだけれども、それが正しいかどうかは判らないが、何だか予め書き手が創造するストーリィがあって、それに現実の事象を当てはめているような感じに読めてしまった。物事ってそんなにきれいに割り切れるものなのかなあって思う。
でも確かにそういう側面もあるのかもしれない。知っておく事は悪い事じゃない。知ろうとする気持ちが大事。
資源、経済、政治等々からの見方、人の気持ちや痛みからの見方。
(上記ページとは関係ないが)大局から見たら小さな一個人の命などどうこう、という論じ方は嫌い。それは「あーいやだいやだ」という感じの「嫌い」、実際に大局と言われるものに飲み込まれたらどう考えるのかは判らない。あー嫌だ嫌だ。
そういう事もふまえて、今日の善光寺発で世界中に配信されたニュース
は、今現在の普通の日本人であったり、まして仏教人であったりすれば当然の判断だったのではないかとは思う。
いま、どの国よりもチベット問題で中国に物を言うべきはわが国である。
日本は、武力よりも、民主主義と国際法、人間の自由、文化・文明の尊重を以て戦後の道を切り開きたいと望んできた。同時に米国の占領政策によって、日本文明の粋を失う哀しみを味わってきた。だからこそ、ダライ・ラマ14世が「チベット文化の虐殺」と呼ぶ中国の弾圧に、率先して抗議しなければならない。日本と多くの価値観を共有し、日本に友好的であった国、チベットのために発言することは、日本が依って立つ基盤を守ることである。福田康夫首相が望むよき日中関係の構築も、日本が発言して初めて可能になる。
…考える事は表現の差こそあれ、同じ
国際チベット学者ら75人の連名の胡錦濤国家主席への手紙をご紹介します。オーセルさんのブログにあった中国語訳のものを翻訳。日本の学者さんもいらっしゃいますね。
ブログ検索をしてみると非常に多くの記事が見つかるチベット関連だけれども、報道は何らかの力が働いているのか、ちょっと静まってきてしまっている。
この数日例の聖火リレーのニュースによってまた注目されたのはいいが、そんなこととは関係なく現地では刻々とひどい自体が進行しているのだろうと想像する。
話はずれるけれどもテロ餃子についてもそう。すぐに流してしまうこの国のメディアって何かおかしい。
中国にとっても、欧米諸国が色々言ってきたり、五輪ボイコットというような動きがあったりすることはある程度織り込み済みだったのではないか。前にも書いたけれども、インドと日本がどう出るかが結構鍵なのかも。
政治家には色々な手法があるのだろうから、今のトップの表面的な部分のみを見てあーだこーだは言えないと思う。ただ事態は、20年後に日本および周辺諸国が恙無く繁栄していれば良いという、それだけじゃあ済まなくなくなっていることをちゃんと認識しているのかなあとも思う。20年後なんて分からないしね。
今はっきり言わなければいけないこと、表明すべき態度もあるんじゃないの。自立した国だというなら。