ice cream castles in the sky

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五月晴れ

籠って種蒔き作業をしていた。芽はちらほら見え始めたような気もする。出費がかなり少なくなっていることにも気づいた。
その間、寒い日や雨の日ばかりだったような。気分にぴったりでナイスチョイス。5月に入ってみたら天気はいいし、それなりの季節の匂いもし、帳尻を合わせられたような変な気分。
でも完全に引き蘢っていた訳でもなく、ブログ的なことも書いていなかった訳ではなく。また例によって新しもの好き、Posterousというツールでちょっと遊んだりしていた。これは設定した自分のアドレスからメール送信することで様々なオプションを付けつつ自動投稿できるもの。試してみると非常に楽ちんで、もうこれをメインブログにしちゃおうかななどと(これもいつもの流れ)思ってみたり。スタイルを弄って素晴らしいサイトに仕立てている例もあり、遊びがいもありそう。
その思いが転じて、この元々のブログでもメール投稿できないかなと言う気持ちになり、調べてプラグインを入れてみたりもしたけれど、投稿が直ちに反映される訳ではなくこれじゃ意味ないなと(元々モバイル投稿用のツールだからそのプラグインが悪い訳じゃなく)。いやプラグイン自体は素晴らしいと思うし仕事か何かの折りに使ってみたいと思うもの。僕の使い方が間違っている。
考えてみれば新規メールを作って送る手間と、ブログの投稿画面をダッシュボードに開き書く手間とたいして違う訳じゃない。要は気になりつつ放置状態になっていたことへの自分自身への言い訳に過ぎなかった(イマココ)。
今非常にヤバいものを背負っていて、さて世間の連休明けにどうなるかという状態なのだが焦りの類いは無し。何とかなるだろうと思っているし、ワクワク感の方が強い。仕事の意欲も高まるというもの。
こつこつ自炊をしていると土鍋でのごはん炊きがとても上手になり(自分比)、同じ目玉焼きでも日々仕上がりが違うことに気づく。フライパンのコンディションや個々の卵の差異、気温等が関係しているのかな。それともそんな気がしているだけなのかもしれない。おかずについてはレパートリーが当然少ないので同じようなものを淡々と作り続けている。料理自体を楽しむ余裕があればそちら方面も悪くないなとは思うのだが、どうかな。時間など余裕があれば結局外食になってしまうような気もするし。
そういえば近所にローソンストア100ができてとても便利になり、自転車でスーパーへ行くことが少なくなった。一人暮らしに丁度良いものがとても安く手に入る。普通の100均店だと案外割高になってしまう商品もあるのだけれど、ここは満足。同じような理由で利用していたぱぱす(食品等の販売もしているドラッグストア)へ行く頻度も減った。

おにぎり

小腹がすいてコンビニに出かけてみれば、
昨日は電池が切れたみたいになっていたので二日ぶりくらいに外に出たのだった。
湿度も気温も高めだけれども悪くない風が吹いていて、こんな夜にだらだらと酒でも飲みながら一晩中歩き回ったらよござんすなあと思いながらセブンで安売り中のおにぎりを一個買ってきて食べた。

カレギュウ

牛丼屋のメニューに「合いがけカレー」というものがある。初めて出会ったのは松屋で、名前は今も変わらない「カレギュウ」と言った。牛丼屋では松屋が始めたのではなかったのかな、どうだろう。地味にヒットしてメニューとして定着したんだと思う。その後徐々に他の牛丼屋のメニューにも入り込みはじめ、今では吉野家にまである。パイオニアとしての松屋に一日の長があるとか、やはり味の吉野家だとか好みは様々だろうけれども、みんなはこれをどうやって食べているのだろう。
ぼくは最近までは牛丼のパートは紅ショウガと七味をまぶして牛丼として、カレーパートはカレーとして、きちんと分けて「2倍おいしい」を実践して来たのだった。この前ふと思いついて牛丼部分をカレールーの中にダイブさせてみた。どちらかというと甘い牛丼の汁がしみ込んだ肉をカレーの中に泳がせるのは邪道かとも思ったのだけれども、これが割合イケた。3倍美味しかったかも。ただこれは初回ということもあったかもしれず、次に注文した時にもう一度やってみて真価を問うことにしたい。
# ブログのタイトルをこっそり変えた(ゴメンナサイ)。
# 肩凝りはどうやら神経痛らしい(自己判断だけれども)。トクホンもいいのだけれども、無臭のアンメルツヨコヨコを最近では愛用している。

2005年の瀬

軽い身体の変調があり、毒には毒と焼酎を四五杯流し込んだ後、「食い勝とう」と、また食えるうちに旨いものを食っておこうとなか卯へ親子丼を食べに(なか卯の親子丼はなかなか旨いのだが本当に久しぶり)外へ出た。昭和通りの信号を待つ間、行き交う車の助手席に若い女性が多いことに気づく。ああ、イブか。なんだかそういう処から随分遠くへ来ちゃったのかなあ。とまれ、頑張れ世間。
さて、帰ったらまた仕事。後どのくらいもつんだろうな。20年なのか、2年なのか。神のみぞ知る?

ダイエット?

…てゆーつもりはなかったのだけれど。
はじまりは、仕事場も自宅もずっと一緒だったのを本格的に分けてみた今年の始め。何十年ぶりかの通勤!自宅は割合坂の多い街で、駅への行き帰りの徒歩7分だけで息は切れ動悸は跳ね上がる。ヤバいんじゃね?と頭の中の誰かが囁き、ともあれ、体型とか体重とかはどーでもいいから人としてのバランスのとれた身体に戻そうと食事等に気を使うようになった。
以前にもたまにそんな気分になったことがあったのだけれども、三日坊主的フェードアウトが常。原因を考えてみると明確で判りやすい目安を想定しなかったことだと思い当たったんだ。何となく食事の量を減らしてみようかなと思っても、いつの間にか元に戻ってしまう。

満月

夕べ腹が減り何か食事と、ついでに酒も少々と思い仕事場近くのコンビニへ向かう。交差点の手前少し前を歩いていたご家族と思われる3人連れのお一人おばあさんがおもむろに立ち止まり、斜め上を見上げて手を併せた。つられて見上げると中秋の名月。永遠のようにウサギが餅をつき続けている。ちょっと素敵な場面だった。
ふと気になったことがある。都内に住み始めて大分たつけれどもときどき気になっていたこと。ふと人が路上で立ち止まり手を併せる風景というのに割合よく出くわす。例えば神社なら神社の手前の路上から、あるいは参道の遠く手前から鳥居を眺め、しばし手を併せまた通り過ぎる。見ている方も少しだけ心が洗われるような気がして清々しい風景ではある。もちろん折々にはきちんと拝殿までお参りしておられるのだろうけれども、それには及ばない日々の簡単な報告のようなものをされているのかなと思う。
田舎だと神社とかお寺さんは子供にとっては遊び場だし、大人にとっても普通の生活エリアの一部だったりするんだ。うちは割合有名でもある神社を中心に広がった町だったから、参道の途中で旅館を営んでいたり、土産物屋をやっている家の子供と同級生なんていうことも多々あった。
都会の人から見る神社仏閣っていうのは、そういうものに対する敬虔な気持ちというのは同じでも、さらにもう一段敷居の高いというかきちんとしなければならない対象なのかなと思った。それから江戸っ子的なせっかちさってのもあるのかしらん。お月さんにしても、子供の頃は団子とススキを供えた縁側から見上げ、おばあちゃんと手を併せたりもしたけれども、それはそういうものだった。ふいにそういう気持ちになって路上で立ち止まってどうこうということはなかったし、そういう方を見たこともなかったので、所変われば的な思いを持ったのだろう。
あ、それから肝心な点としては、こんなに大勢の人が昼夜を問わず出歩いていたりはしないな、田舎では。