週末のニュースふたつ。
ダライ・ラマ14世と、チベット仏教ナンバー3というまだお若いカルマパ17世がそれぞれドイツと日本のマスコミのインタビューに答えている。
タイミングとしてはチベット特使と中国政府代表との非公式対話を持ち帰り分析した結果を受けてのものだと思うけれども、今まであまり表立った発言をする事を控えてきたという次世代のリーダーが会見した意味は何かと考えると興味深い。
私が感じたのは焦りと警告。チベット側には時間がなく、中国側も危ういものを抱えている。それに利権や資源にといった様々なモノタチが世界中から絡みついている。さて、最終的に何者がコントロール(できるうちに)するのだろう。
チベットでの問題勃発には筋書きでもあったのかと思われるくらい、各国にとってタイミングが良すぎるような気がしている。もちろんそんな国々の思惑に振り回され痛い目を見るのは民衆であり、今回はチベットの人々だ。というか、長過ぎる時間、痛い目を見続けて来た。
そんな中、いつものオリンピックでは淡々と行われる(ように見える)行事の一つが、今回は強烈にクローズアップされている。
聖火が日本にやって来た。明日リレーランナーが走る。チベット問題では「普通の人」の声が目立つ。明日も何がしかのアピールがあるのだろうと思う。テロ餃子からチベット、オリンピックへの流れは絶妙で、言葉は悪いが飽きさせないよう良く出来すぎているんじゃないか。チベットの自治を勝ち取りたい人達にとってオリンピックは千載一遇のチャンスであり、中国にとってもひと騒動起こった上で、かねてから懸案だった案件を上手く治め、五輪も成功させれば旧態からの脱皮をはかることができる。西側も日本もそれぞれの立場を演じているようにすら見えてくる。ただ、落としどころを間違えればすべておじゃん。民衆は予期しない動きもするからなぁ。
日本政府というか、まあ上に立つ人達がここ数年求めていたのはある程度声を上げる民衆ではなかったのか。国の運営に大きな支障が出るようなのは困るが、ここまですっきりと押さえ込めてしまうとは思っていなかったのだろう。従順な国民は便利だけれども、手応え無しでは澱みが出来るばかりだった。他の国からは奇異の目で見られ、軽んじられる。そんなこんなやあるいはガス抜きの意味などもあって、もう少し立ち上がるべきところでは立ち上がってほしいという空気というか、そんな節はなかったか。
根拠もデータもないけれどもね、そんな妄想を抱いてしまう。ここ数日頭痛が治まらない事も妄想の原因かも。きっとそうだ、うん。
数日前に、急成長した某企業の社長が「休みたいなら辞めればいい」と言い放ったというニュースがあった。いつの時代だよ。なんていうか馬鹿社長と洗脳された社員たちという図が想像できて哀れを感じる。社員の給料もいくらかは上がった事でしょう。払った犠牲と釣り合いは取れたのかな。成長して突出し、その業界を独占牛耳る。そんなものそこの会社の幹部以外誰も求めていない。
チベットの次は国内問題でも「普通の人」は立ち上がり始めるのかもしれない。まるでそれを煽るような失政続きだし、上に書いたような経営者がまだまだ多くそう言う意味で旧態依然なのは中国だけではなく、むしろ日本っていう国なのだろう。
いま、どの国よりもチベット問題で中国に物を言うべきはわが国である。
日本は、武力よりも、民主主義と国際法、人間の自由、文化・文明の尊重を以て戦後の道を切り開きたいと望んできた。同時に米国の占領政策によって、日本文明の粋を失う哀しみを味わってきた。だからこそ、ダライ・ラマ14世が「チベット文化の虐殺」と呼ぶ中国の弾圧に、率先して抗議しなければならない。日本と多くの価値観を共有し、日本に友好的であった国、チベットのために発言することは、日本が依って立つ基盤を守ることである。福田康夫首相が望むよき日中関係の構築も、日本が発言して初めて可能になる。
…考える事は表現の差こそあれ、同じ
国際チベット学者ら75人の連名の胡錦濤国家主席への手紙をご紹介します。オーセルさんのブログにあった中国語訳のものを翻訳。日本の学者さんもいらっしゃいますね。