いま、どの国よりもチベット問題で中国に物を言うべきはわが国である。
日本は、武力よりも、民主主義と国際法、人間の自由、文化・文明の尊重を以て戦後の道を切り開きたいと望んできた。同時に米国の占領政策によって、日本文明の粋を失う哀しみを味わってきた。だからこそ、ダライ・ラマ14世が「チベット文化の虐殺」と呼ぶ中国の弾圧に、率先して抗議しなければならない。日本と多くの価値観を共有し、日本に友好的であった国、チベットのために発言することは、日本が依って立つ基盤を守ることである。福田康夫首相が望むよき日中関係の構築も、日本が発言して初めて可能になる。
…考える事は表現の差こそあれ、同じ
国際チベット学者ら75人の連名の胡錦濤国家主席への手紙をご紹介します。オーセルさんのブログにあった中国語訳のものを翻訳。日本の学者さんもいらっしゃいますね。
チベットの自然や人々のことは遠い昔、本かテレビで知ったのだと思う。すぐに親近感を憶えた。その後も近しい存在として時々情報は届き、歴史についても漠然と知っている。でもチベットには行ったことがない。中国にすら行っていない。漠然としたまま書き始めてみる。
状況が悪化しているのはニュースの通り。何か書きたいと思った。でも会ったこともない人たち、行ったことのないくにについて何が書ける。多分、私なんかよりも中国の政治の中枢にいる人たちの方がチベットについて何十倍も考えているだろう。それは利権とか資源というようなことだけではなく、当然人々のことも考えているはずだとは思う。それなら、どうして?
市民という意味で私と同じ立場の人たちや若者やおばあさんまでが中国の軍人に殴られ蹴られていた。殺された人もいる。そのような映像は信用できるものだと思う。許せない。
中国の人の考え方、中国の経済力・軍事力と、チベットの人の考え方、他の国々の反応、たとえば隣のインドの人の対応、利害関係を想う。日本はどうか。
中国が急激な発展をする中で、目をつぶって来たことや気にしてこなかったこと、欲をかいてしまったことがあるのだろう。他の国も経済とか産業なんてもののために一緒に目をつぶっていたのだろう。それで国としての遺憾の声は挙げにくくなった。
まるで始まりを告げるように上海でBjörkが歌った様子をYouTubeで見た時には、すげーなと思わず拳を握った。こういう事態になってあらためてそれを見るともっと違う感情がこみ上げる。Björkはよく聞くアーティストの一人だけれども、そういうことを超えて。
零にほとんど近いほどの無力感を感じている。多くの人はそうだろう。
遥かなるチベットのことを書こう。