デザインが連れて行ってくれるところを、「本当はこうあってほしいところ」という風に仮定してみよう。
さて、デザインが万能だなんて思っていない。特に人間が施したデザインなどというものは怪しい。
着地点とか着地するっていう言い方をする。好ましいデザインて何か。
「すっきり納まる気持ち良さ」だと思っていた。一言で言えば。気持ちのいい事は嬉しい。ただ、何を気持ち良さGalかはひとそれぞれで、もちろん多数の共通項となっている部分も無いではないのだが。例えば自分のことを言えば、とんでもない混沌の中にあるひとひらや、背徳感にまみれたような部分にそれを感じる事もあるわけで、というかどんなもののなかにも何かしら見つけ出したいと思うタイプなので面倒だ。
デザインというのはその多数の共通項をさらに洗練させたり、そことはちょっとズレているポイントをミキサーに放り込んで取り込んでいったりするテクニックの事なのではないのかな。それは素晴らしい事だし、目指したい部分でない事も無い。どうしても違和感が残ってしまうのは、「多数の共通項」という部分に本当の価値を見いだせない自分がいるからなのだろう。
時には目隠しをして自由を奪った上で速い車に乗せてみたい、とかそういうこと。深夜、巨大な蜘蛛に頭上をゆっくり通り過ぎて行かれる時の気分を想像してみたり。
モリサワパスポートにヒラギノが収録されるというニュースが流れて、ちょっとかなりショックだったのだけれど落ち着いて考えてみた。
ショックだったのは先日パスポートの契約を止めてフォントワークスレッツに戻してしまっていたから。ただ、待てよ。今回のニュースは僕にとってもメリットの方が多いのでは。
これでようやくパスポートも値段相応のサービスになったと言えるような気がするが、収録されたおかげでヒラギノは市民権を得ることができた。各出力センターや印刷屋がヒラギノに対応するということは随分前にヒラギノに惚れ込んでヒラギノ角ゴW1を購入した頃からの個人的な悲願でもあった。今はもちろんフォント埋め込みで何とでもなるとしてもやはり嬉しい。
また、ヒラギノを使った印刷物等が増えるだろうことは大げさに言えば日本の生活風景が変わっていくのではと期待するくらいメリットをもたらす。リュウミンを見かけることが減っていき、ヒラギノ角ゴのモダーンなフォルムが中ゴBBBと新ゴの間の広い隙間を埋めてくれればそれだけで少し世の中が良くなるのではという幻想まで抱いてしまう。
前にも書いたけれど、モリサワ書体は別に悪くはないのよ。でもやはり書体にはそれぞれ同じ明朝系なら明朝系でも特徴(くせ)があるので、モリサワばかりの世界は嫌なのさ(もちろんハードカバーの書籍やらあれこれで他の伝統ある書体は使われ続けているのだけれど)。どちらかというと、モリサワ書体はたまに見かけて「おっ」と思う、そんなポジションの書体だったんだよな昔々は。
これより少し前のニュースでモリサワはあの秀英明朝もライセンスすると発表していた。これにも驚いたものだけれども、あの会社は日本語フォントの結集でも狙っているのかな。
だとしてもパスポートには戻らない。Mac OSにヒラギノ基本書体は含まれているのだし、欲しいバリエーションは単品で買いそろえていけばいい。元々そのつもりでパスポートを止めたのだった。この流れで環境が整ってくれることの方が大きなメリットなのだと思う。
※この頁、ここにつづく。