OS X Yosemite のシステムフォント
ギズモードが新しいOS X “Yosemite” のシステムフォントがLucida GrandeからHelvetica Neueに変わることについての記事を書いている。
http://www.gizmodo.jp/2014/06/os_5.html
例によって、ジョブズがいたらこうはならなかったのではないかというような否定的な論調。
もうそういうのうんざりだ。
Helveticaには良い部分と今ひとつな部分の両方がある。他のフォントと同じように。伝統的な書体をシステムフォントとして現代のコンピュータのモニタに映した時にどうなのかという問題は確かにあるだろう。
OS Xが誕生したとき、まだモニタの多数はCRTだった。Lucida GrandeはモダンOSの象徴の一つでもあった。リアル指向のアイコンなんかにも良く似合った。
iOS7でSkeuomorphismを大幅に消し去ったようにYosemiteで変わろうとする時にフォントが変わるのは当然だ。また、高精細な液晶モニタが主流になっている状況も後押ししていると思う。
個人的にMacintoshはMac OSの頃から好き嫌いを超越したパートナーではあるけれど、そもそも基本的に肌合いが合うということはもちろんあったのだと思う。
それでも時々若干の違和感はあって、その一つがそのSkeuomorphismだった。
その辺りが素晴らしく改革されたiOS7を高く評価したいし、Yosemiteにも大きく期待している。
ギズモードの記事中気になったのはApple Sansという単語。
実はLucida GrandeはOS Xの最初の頃こそ良いイメージだったけれども、すぐにちょっと古くさい感じがしてしまい以降ずっとそう感じていた。Helvetica Neueへの変更はそういう意味でも歓迎はするものの、確かにAppleは何か隠し球を持っているのではという気はしないでもない。Yosemiteで御披露目とはならないかもしれないけれどもオリジナルフォントを準備していたとしても不思議は無い。MyriadとHelveticaのいいとこ取り的なフォントを想像したりする。
もう一つ気になるのは、日本語環境ではどうなるのかということ。AquaKanaも当然変わるのだと思うけれど、素直にヒラギノ角ゴW2あたりになるのか、それとも新しいフォントが開発されているのか。
毎日使うものなので楽しみと不安が混ざるけれど、アイヴのグランドデザインとそれを理解するチームを信頼しているのでまあ大丈夫だろう。
秋が待ち遠しい。
Google、ハンドルもブレーキもない無人運転車を発表
内容はこれから読むんだけれど、この顔に無条件反射。
あー、Androidもそうだけれど、Googleの顔ってこんなイメージだよなあ。
何の説明も入らないし、見ればその通り。
Appleがやるとしてもこんな顔のモノは出さないし、出せない。実験上だとしても。ある意味このあけすけさに感心してしまう。
大半の人はどんな顔でも、蹴飛ばしたくなるような動作でも安い方がいいんだろうし、我慢できちゃうんだろうな。それは金銭的についても知識的にもその有無に限らず関心の範囲ってのは個々に違うのは当然なのだけれど、「平気」な人たちがこんなに多いものなんだなあという驚きなのだ。ごく正直な気持ちとして。
いや、無人運転車にはものすごくワクワクするし、期待する部分も大きいのだけれどね。
動画:Google、ハンドルもブレーキもない無人運転車を発表。ロボットカーの課題を探る実験用 – Engadget Japanese.
朝から
週数回副業をこなしている。
本業が食えないからだけれども、何だか副業が本業になりつつあるような気もして微妙
例によって夜中仕事のそれを明け、朝帰ると飲む。
仕事上がりに飲むのは当然の事。そこに間違いは無い。
朝から昼頃まで飲んで寝る。
起きると夕方。少し雑務を済ませるとすぐに夜。
また飲む。これも問題ない。夜だもん。
というわけで土曜日は一日中飲んでいるか寝ている。
といってもこれも例によって淡々と同じ量を機械のように体に入れて行くので
爆発的に酒量が増える訳でもない。
本来なら有効に使いたい土日のうち半分がこれで終わってしまう。
下手をすると日曜日も使い物にならない。
それでどんどん問題は先送りされ、用件は溜まって行く。
悪循環と言わば言え。
自堕落。
頭を殴られたセールスマンが、数学的特殊能力を開花
彼は、ある日暴漢に襲われ、頭を強打されて意識不明になった。数回の脳外科手術を受け、意識を取り戻した時、彼には世界のすべてが「幾何学というレンズ」を通して見えたという。
引用元: 頭を殴られたセールスマンが、数学的特殊能力を開花 – IRORIO(イロリオ).
特に子供の頃、何か様々なちからが集まるような感覚で普段の自分の以上の事が出来てしまう瞬間がある。多かれ少なかれ誰にでもそういうことってあるんじゃないかな。
いつも思うのだけれど、2、3発引っ叩いてもらった方がいいのかなって。ここのところひどすぎるわ自分。
天邪鬼
全ての謎が解けてゲートの鍵を渡されたとしても、それを開けるかどうかはまた別の話。
かんたんなことはかんたんじゃない。
もぬけの殻だから誰もいないかと言うとそうでもない。残っているもので何とかして行くしかない。
カッパの皿のように零さないように。漏れないように。
かなり突き詰めたつもりだ。謎を解き、仕組みを解明した。そうして分かったこと。それとその先のことは全く連続性も関連も無く別のことだった。
先に進む手だては考え尽くした。それでも先に進めればいいと思っていた。先に進むことができればそれなりの世界が広がると想像していた。
本を読むのなら、机に座りその本を開く。後は勝手に読むように読む。かんたんなこと。
でもそれはかんたんじゃない。本を読もうと思うのは思ったとする。
机に座らない。
座ったとしてもその本を開かない。別の本を開くかまたは何も開かない。
何故席に着かなければならないか。
何故本を開かなければならないか。
意地でも思った通りになんてしない。
別に自分が憎い訳でもないけれど、自分の思った通りになんてしてやりたくない。
そもそも誰もいなくなった。
本を読むときに本を読む手だてを準備した彼はもういない。
だから本を読むことが特別なことになっている。特別なことなんかしている暇はない。
日々の1円玉や10円玉の数の方が重要ではないか。
始末はきちんとつける。それに反目するものはいない。そこはみんなでやっていける。