年の瀬に
ある程度の事は片付いたのに胸の中がざわざわし続けているのは何故なんだろう。仕事の愚痴はどうかとも思うのだけれど、 前後含めた厄年3年分とちょうど重なった様々な事の成り行きは整理しておいた方がいいのかな。
4、5年前と言えば世間はすでに不況が囁かれ始めていた。確かに今考えればうちにも下り坂の兆しは見えていたんだ。ぼくは新しい展開を求めて入船の共同事務所に引越して来ていた。事務所共有とはいえ、僕は「住み込み」。懸りは均等割しているとはいえ、名義はもう一社の方にあった。仕事でもプライベートでもすっきりと割り切る事ができず、息が詰まりはじめてその状態を解消した。ぼくが飛び出す形で門前仲町のアパートに移ったのが3年前。双方に問題があったと言えばあったはずなのだが、言い出したという事で約束期間の金銭的な負担の応分は全部受け持った。
慢性的な借金体質は、実は10年前の独立直後から続いていた。ただその内容が、ほぼ「健全な融資」といえるのか、「宜しくない借金」の割合が増えるのかといったマイナスの海の中での浮き沈みはあった。全体的にゼロに近づいたときもあるにはあったのだが。門前仲町に移る頃はかなり悪化してのことだったし、そのアパートはそういう状態からするとまさに似合いの「アジト」と言いたいような雰囲気の部屋。その後の事を書こう。古い友人(同業者)がそこに机を置かせてくれと提案して来て受け入れ、その狭い「アジト」に通って来はじめたこと。得意先であり仲間でもある会社から、制作部門を日本橋に置く事を考えているのでそこに入って欲しいとの申込があり承諾した事。すぐに門仲から日本橋への自転車通勤がはじまったこと。等々。
日本橋事務所では毎月定額の収入があった。ただ、その話が来る直前は、初めて撤退を考え始めていた頃でもあった。撤退と言っても実家に戻って仕事を続けるつもりだったし、そのプランも練り始めていたので日本橋の話は渡りに船とはいかず、ちょっと検討する時間が必要であった。結局承諾するのだけれど、タイミング的に若干の余力を残して撤退しておいた方が良かったのかどうかは今となってはわからない。
日本橋ではそのプロジェクトの仕事と平行して今までの仕事もこなしていたけれど、特に営業して仕事を増やして行く訳にも行かず、多少中途半端な気持ちを抱えながらそれでも一定額の収入があるのは有り難く、前向きに取り組んでいた。門仲へ移ってから1年ほどたった頃、入船に出戻った。こぶ(机を置いていた仲間)付きで。僕は日本橋へ通い続け、元の相方と店子の彼は入船に通勤して来た。さて、その後の事だ。日本橋計画は結局1年で突然散開と言う事になった。自分の仕事場も入船に戻したのだが、先に書いたように個人の仕事はセーブし減少してしまっていたのでさらにかなり厳しい局面に立たされた。
入船の相方の仕事も上手く行っていないようで、事務所の維持自体が難しくなっており、抜本的な対策が必要だった。良好な物件を探し出し、入船撤退、築地移転を提案した(橋を隔てて隣町)。現在の3社3名を含め、もう1社1名参画することになった。築地では住み込むことになる僕の名義として、他3人が通ってくるというかたちにした。とはいえ毎日通って来るのは「店子」の彼だけ。他の2人は必要なときにふらっとやってくる。このかたちはそれなりに快適で現在に至っている。1年ほど前からのことだ。
借金は会社として「健全な融資」の割合を高めるためのアプローチは折につけ行って来た。その都度はね返され、頭を垂れてその時々の「アジト」に帰った。僕はこの仕事が好きで、それでしがみついている。国の機関であるはずのある融資先に出向いたときにはある担当者に最後に「要はあんたは金が欲しいだけなんだろう?」と言われた事がある。
頭に来た。しかし次のチャンスもあると考え黙って帰った。帰った後思い返してみる。仕事がしたいのは本当の事だ。しかし切迫した状況が僕をぎすぎすした表情に追い込んでいたのではないか。正に「金が欲しい」という表現をさせていたのではないかと考えてみた。
さてこの3年、個人の借金は雪だるまとはよく言ったものできれいに丸々と膨らみ、にっちもさっちも行かなくなって行った。この3年は月初めにその月の生活費・食費を確保できた月はなかったのではないかな。どうやってやりくりしてきたのか無我夢中だったので今はわからない。道の草を摘んで食べ、公園の水を汲んで来て飲んだという記憶はないのだけれど。
ひと月ほど前はもう腹をくくっていた。撤退やむなし。ただ事ここに至っては余裕などいっさいなく、這々の体で逃げ帰るしかない。1、2ヶ月は実家の世話になるしかないと思っていた。地元で仕事を探すにしても四十過ぎ、すぐに見つかればいいがなあと。当然今の業種の継続は難しいだろうが、独り身でもありどうにかなるさと、それなりに楽しくやっていけるだろうと能天気に。
しつこさには自信がある。一方で腹をくくり、その準備をしつつ、他方で営業廻り、アルバイトなどもさかんにした。アルバイトに選んだのはコンビニの夜間店員。時給が悪くないのと仕事への影響を少なくするため。ただこれは意外にきつかった。誕生日の朝をコンビニのレジで迎えたときには思わず苦笑いをした。営業はそこそこ成果を上げ始めていた。新しい仕事が増え始めるのと平行して、最後の機会をうかがった。実は2年ほどかけて暖めている企画がある。何とかこれだけはやってみたいと考えている。もし撤退して他の仕事についたとしても時を見て立ち上げたいと考えていた。この企画書を持って歩いたところ支持してくれる人を見つけ、最後の一つだったドミノの駒をいくつか返し計画に挑戦するチャンスを得る事ができたのは2週間前。
これが厄年にヤられた(ということにしてしまおう)3年の出来事。槍を持った鬼たちに心臓を毬のように突き上げられ遊ばれているような時間は一旦終わった。胸のざわざわした気持ちが引かないのは槍の傷がまだしばらくは痛むという事なのだろう。これは忘れては行けない痛みなのだろうな。