チベットの廻りで
今も刻々苦しんでいるのかもしれないチベットの人たちのことを先ず想っていたい。姿がよく似ていて我々の精神のふるさととも言える人たち。(といわれている。確かに映像等の情報を断片的ながら昔から見ているとそんな気がする、だから)とても気になる。何か出来ないかと思って気持ちがザワザワしたのは正直なところだし、今もそう思っている。
ただ一方で、日本の東側に住んで情報の多くをインターネットから仕入れ、いろいろな角度からの見方がある事を知る時に、それならば客観的でいたいとも思う。911の時もそうだったけれども、一連の出来事には不可解な事象が無いではなく、様々な見解が出現したことを知っている。
ネットを廻っていて何経由だったか、こんなページを見た。
間違いなくぼくなどよりこの方面の知識は豊富な人が書かれているのは判るのだけれども、それが正しいかどうかは判らないが、何だか予め書き手が創造するストーリィがあって、それに現実の事象を当てはめているような感じに読めてしまった。物事ってそんなにきれいに割り切れるものなのかなあって思う。
でも確かにそういう側面もあるのかもしれない。知っておく事は悪い事じゃない。知ろうとする気持ちが大事。
資源、経済、政治等々からの見方、人の気持ちや痛みからの見方。
(上記ページとは関係ないが)大局から見たら小さな一個人の命などどうこう、という論じ方は嫌い。それは「あーいやだいやだ」という感じの「嫌い」、実際に大局と言われるものに飲み込まれたらどう考えるのかは判らない。あー嫌だ嫌だ。
そういう事もふまえて、今日の善光寺発で世界中に配信されたニュース
は、今現在の普通の日本人であったり、まして仏教人であったりすれば当然の判断だったのではないかとは思う。