ice cream castles in the sky

Posts Tagged: 気持ち

近頃のネット界隈

Facebookでついに数人フォロー外しをした。フォローだけ外せば友達状態は維持したまま先方に知られずブラインドにできる。
ネットリテラシーがどうとかっていうけれども、要は性格なのだろう。一次情報や仲良しの言うことを鵜呑みにして脊髄シェアしてしまう一部の方がおられる。陰謀論が大好きで、原子力と聞けば、安倍・自民と言えば、中国・韓国がと付けば全て拒絶。辟易する。
Facebookは現実の知り合いが多いから、実際にお会いすると皆さん良い人ばかりだ。嫌いな人と付き合いが続くタイプでは無いので自然とそうなる。でも同じ人がネット上ではおかしなことを言い始めることがある。(この手の話はお互い様で、こちらがやれやれと思われている場合も当然あると思う)
ネットに慣れ、かつ普通に考える力のある人なら少し際どい話題ならソースはどうかとか、反論はあるのかなど調べ納得した上でシェアしたりするはず。また、どちらかの方面に不利益が生じるような話題や誰かの将来に影響する話題ならそれなりの覚悟を持って話さなければならない。福島に人は住んではいけない産ものは食うなとか、癌は医者にかかってはいけないとか、お気楽にふれ回っちゃってあんた責任取れるのかいって思う。
また、今時馬鹿か余程の理由が無い限り右とか左とかに極端に振れる筈はないんじゃないのかな。
例えば政治家の靖国参拝について。神社の成立の過程をもってそれを否定する人がいたとする。その先には、では別の慰霊施設を作るべきだという人もいれば、そういう施設自体不要だという人もいる。もちろん靖国で全く問題無いという人も多い。
例えば時の政権について。今の安倍さんをトップとする体制で、首相個人をどうこう言ってもあまり意味はなく、その取り巻きを含む政権の意思として大小様々な案件が複雑に処理されていく。プロの精鋭集団で全く仕事ができないなんてことは常識的に考えて有り得ない。これは民主党時代も同じことで折角あれだけの政権交代という一大事をやって宿願の政権を取り、全員が必死で働いて、でも最終的にはああいう結果になったのはひとえに政(まつり=祭り)を執り行う能力が決定的に欠如していたからに他ならないと思う。奴ら神輿担ぎが悲惨なくらい下手くそだった。
自民党政権が30%の仕事を50%成したように宣伝するようなことをごく自然にできるとしたら、民主は50%やったことでも10%も広められなかったような、そんな印象がある。
今はそれこそ後の祭りで、民主党政権時代にこれだけの仕事をしたのだと議員が言ってももう誰も聞く耳を持たないし、野党としてもただ反対するだけのつまらない野党になってしまった。
靖国はOKだけれどTPPは駄目とか、安倍自民党政権は支持するが靖国参拝は止めておいたほうがいいとか、憲法改正はするべきだけれども9条は戦略的に維持したほうがいいとか、様々是々非々。これだけ情報が多く考える機会が豊富な今は個々の考え方はそのスタンスによって(昔でいう右とか左とかではなく)微妙に構築されて行って当然。
そういう科学的で平らな考え方ができる人と話をしたい。
個人的な(今現在の=明日は知らない)考え方も書いておかないとフェアじゃないか。
今興味があることは、3Dプリンタ、ドローン、水素技術など。オスプレイは乗ってみたい乗り物ベスト3に入る。
現政権はまあ平均点程度はよくやっていると思う。憲法改正は十分議論した上で進める。TPP OK。東京五輪、決まったのだから前向きに成功させよう。遺伝子組換え問題なし。ニセ(トンデモ)科学・医療は死ね。築地市場の移転は早急に進める。原発はさらに安全に留意して当面再稼動できるものはすべきだと考える。将来的には核融合や水素燃料、自然エネ他新技術への切り替えを図るのが良い。中国には大まかには期待している。上手に連携できるといい。個別の問題としてはチベットのこと何とかしろこの野郎。など諸々あり。韓国とは随分こじれちゃったので心配。家と家に例えれば数世代代らないとリセットできそうもない。レッドソックス頑張れ。ケチャップはデルモンテ。
ところでフォロー外ししてみての感想なんだけれどタイムラインが妙に味気ない感じなのです。どうやらトンデモ発言に対してバッカじゃないのと思うことがある種の刺激になっていたみたい。うーむ。
そうだ、ネット界隈ということで追記しておこう。
少しでもこれは叩いていいんだっていう対象を発見したらここぞとばかりよってたかって袋叩きにする風潮、日本はこんなに素晴らしいと必要以上にふれ回る連中。どちらも下衆の極み、ゲロ好かん。

昼間ちょっと悲しいことがあったのだけれども、夕方の美しい虹が吹き飛ばしてくれた。

セミ鳴いた?

セミの声を聞かないなあと思っていたら気候の関係らしい。
まあ、遅れているだけできっともうすぐあのうるさい大合唱になるのではないかと思っているけれども。
でも数年前にもセミの声をあまり聞かない夏があったな。
普段あるものがないととても気持ちが悪い。

夏本番を象徴するセミにちょっとした異変が起きている。今年の初鳴き日は平年より早いものの、個体数が少なく、例年のような耳をつんざく大合唱とまではいかない。専門家は6月に梅雨らしい天気が続いたことなどが原因とみているが、俳人からは「季語の虫の声が弱々しいと、寂しい」との嘆きも出ている。

初夏のシクラメン

cyclamen02.jpg花のいのちというと儚いものの例えだけれども、3月にここに載せたうちのシクラメンさん、12月に八分咲きの状態で頂いて以来まだ咲いてくれている。
さすがにここへ来て気温が上がったこともあり日中は元気をなくすが、夜中は徹夜作業を励ましてくれるかのように足を踏ん張る。
次の冬の開花のことを考えたら、しおれ気味の花は摘んでしまった方がいいのかもしれない。でもそれはしたくないので水を上げる度にもう十分だよって話してみたがどこ吹く風。
今はどこまで行けるのか付き合ってみようという気持ちになって来ている。
そういうわけで今はすっかり家族のようだけれども、以前はシクラメンという花を手元に置きたいと思ったことは無かった。布施明が歌って大ヒットしたあの歌が、多分原因。子供心に「大人の世界の何か微妙な部分」を歌っているのは判ったし、加えて小椋桂のあのメロディーが決定づけた。自分とは関係のない世界の淀んだ光の中にある花という印象。
数年が経ちフォークシンガー的な側面からの興味でたまに小椋桂の曲を聞くようになり、そのオリジナル版によってやや印象が変わった。本来の雰囲気を知り、「驚いたように」や「疲れ知らずの」の部分の歌い回しが違うんだぜなんて友達に知ったかぶり。
そもそもシクラメンがどんな花かなんて知らなかった。そんな状態で変なイメージを貰っちゃったものだから実物を知った後もそれが邪魔をした。
こうやってそばに置いてみて、ようやく花本来のイメージに置き換えることができたような気がする。自由だけれどもけなげで、何より美しい。葉との対比やそのフォルム。冬の花の女王は悠々と初夏の光を浴びている。

木枯らし

今度の部屋はガスは使えるがコンセントが表に出ていないので毎年愛用していたガスストーブが使えない。上部が網になっていてやかんを置いたりとか便利だったのに。その代わり省エネ型のエアコンが付いていたからいいといえばいいのだけれども、足から冷えてしまうタイプだから何かをプラスしたいこの頃。サーキュレーターを置いて暖気を拡散するか、足元ホットカーペットか。
寒がりのくせに靴下を脱ぎたがる。靴下自体は嫌いじゃないのだけれども、外から帰るとパッと脱いでしまう。子供の頃はずっと冬はこたつ生活でこたつは靴下を脱いで入る事というのが家の暗黙のルール(というほど厳密なものではなかったか)だった。炭をおこして入っていた頃の名残だったのかもしれない。何歳までそんなこたつに入っていたんだっけ。懐かしいな。夏は裸足の方が気持ちよかったし、そういうわけで家の中では靴下を脱ぐ癖がついてしまったのかもしれない。
それにしても急に寒くなって来た。年々秋が短くなっていく。

満月

夕べ腹が減り何か食事と、ついでに酒も少々と思い仕事場近くのコンビニへ向かう。交差点の手前少し前を歩いていたご家族と思われる3人連れのお一人おばあさんがおもむろに立ち止まり、斜め上を見上げて手を併せた。つられて見上げると中秋の名月。永遠のようにウサギが餅をつき続けている。ちょっと素敵な場面だった。
ふと気になったことがある。都内に住み始めて大分たつけれどもときどき気になっていたこと。ふと人が路上で立ち止まり手を併せる風景というのに割合よく出くわす。例えば神社なら神社の手前の路上から、あるいは参道の遠く手前から鳥居を眺め、しばし手を併せまた通り過ぎる。見ている方も少しだけ心が洗われるような気がして清々しい風景ではある。もちろん折々にはきちんと拝殿までお参りしておられるのだろうけれども、それには及ばない日々の簡単な報告のようなものをされているのかなと思う。
田舎だと神社とかお寺さんは子供にとっては遊び場だし、大人にとっても普通の生活エリアの一部だったりするんだ。うちは割合有名でもある神社を中心に広がった町だったから、参道の途中で旅館を営んでいたり、土産物屋をやっている家の子供と同級生なんていうことも多々あった。
都会の人から見る神社仏閣っていうのは、そういうものに対する敬虔な気持ちというのは同じでも、さらにもう一段敷居の高いというかきちんとしなければならない対象なのかなと思った。それから江戸っ子的なせっかちさってのもあるのかしらん。お月さんにしても、子供の頃は団子とススキを供えた縁側から見上げ、おばあちゃんと手を併せたりもしたけれども、それはそういうものだった。ふいにそういう気持ちになって路上で立ち止まってどうこうということはなかったし、そういう方を見たこともなかったので、所変われば的な思いを持ったのだろう。
あ、それから肝心な点としては、こんなに大勢の人が昼夜を問わず出歩いていたりはしないな、田舎では。