ice cream castles in the sky

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空席

仕事部屋に空席を一つ作った。来て欲しい人がいて、先に席を作っちゃうと叶わないような気がして棚上げしていた。
将来的には必ず誰かによる引き継ぎが必要になる。元来形を作って要素を納めていく質だったのだから。
闇雲に作ったのではなく何とは無しに誰かが(誰かは分からないけれども)そこに収まる絵が少し見えたので形にしてみようと思った。

誰かが座るであろう席は砧に住んでいた頃の机だ。気がついた。
もし誰も座ることがなく終わるとしてもそこにその頃の自分が座っている。

極端な話を言えば、生きていくために必要な物資がある無しとかを無視して言うなら、最終的にこの世界に自分一人がいればいい。
面倒くさいから書かないけれど、良くある安っぽい思いの末に逃げ込む言葉ではなく、本質的なことを言っている。
自分以外の何ものもない世界では短い時間しか生きられないだろうけれど、多分それなりに楽しめる自信がある。
そうしたらもう一度何か絵を描こう。自分しか見ることのない絵を

夜明け間近の東京の空がブラマンクが描いたように荒々しく、でも清々しかった。
デジカメをすぐに用意できないのが痛い。ちゃんと充電してこういうチャンスを逃さないようにしないとね。ただ、コンデジじゃなくて一眼がそろそろまた欲しいな。
最近とても素敵な写真を載せているブログを見る機会が多い。玄人はだしの写真を撮られる方も時におられて感嘆する事も多いが、そんな事よりもアマチュアならではの遊びや工夫、その方個人のお人柄が浮かび上がるものを見るのが楽しい。たまーにコンデジで工夫の無い写真を撮るだけの自分にとっては勉強にもなる。
写真は光とレンズの面白さ。レンズは道具側でなんとかなるにしても、光を捕まえるのは並大抵ではない。そんな事を思っていると、少なくとも基本的に好きな光がある場所に住んでいたいと思うもの。絵描きが拠点を探すように。例えばごく普通の日中のごく普通の街路樹の葉を見るときに、実家のある田舎のそれと銀座辺りのそれとではまったく違う。これは都市化がどうということもあるのだろうが、地形その他の要素も大きいような気がする。
今の部屋と町は気に入っているので、もうしばらくは“引越病”も治まっていると思うけれども、好きな光があるところという基準で拠点探しをしてみるのもいいかもしれないな。

Folon

folon.jpgニュースを見落としていたのかもしれないのだけれども、なんとなく絵を見たくなってたまたま検索していたらこんな記事が目に入った。四国新聞によると画家のJean Michel Folonが亡くなられたとのこと。
20代の頃に見た展覧会の中でも印象に残っているもののひとつが鎌倉の神奈川県立近代美術館(だったかな?後で調べてみよう)でのフォロン展。色彩と、画面のこちらと向こうを静かに結ぶような空気感を忘れる事はない。ご冥福をお祈りします。

ジャンミッシェル・フォロン氏(ベルギー生まれの画家・彫刻家)AP通信などによると、20日、白血病のためモナコの病院で死去、71歳。
建築を学んでいたが画家を志してフランスに渡った。当初、フランスでは評価されなかったが、作品を米国の雑誌に送ったところ、ニューヨーカー誌などで紹介され注目を集めた。水彩画やイラストのほか、彫刻やグラフィックアート、地下鉄駅の巨大壁画など幅広い分野にまたがって独自の世界を展開。日本を含む各国で作品展が開かれた。(パリ共同)

庭園美術館はツクツクホウシの声が賑やか

何となくパターンが見えて来たような気もする。

2003年の夏にみたもの

寒くておかしな夏はようやく辻褄を合わせようとして、扇風機もぶんぶん頑張っているわけです。その寒かったお盆のころに出かけてきました。

芸術の時代

只チケットがあったので出先で「25人の絵画展」(新宿:東郷青児美術館)を見た。
作品の内容よりも、今という時代の芸術について考え込んでしまった。日本でも卓越した画家25人の作品には当然ひかるものがあるのだけれど、絵の中から腕が延びて来て見ているものの首根っこをぐいと掴み、引張り込んでしまうような感じ、そういうやり取りができる絵はなかった。ある意味それはこちら側の問題でもあるのだろう。でも数十センチ掛ける数十センチのキャンバスに使いつくされたテクニックを駆使して絵を描く、そういう表現を「今」行うことってどうなのか。「絵を見る」前にそんなところで引っかかってしまった。
東郷青児美術館には順路の最後に例のゴッホのひまわり他数点の「名画」が展示されている。その時代彼の人の描いた絵には少なくとも確かにその表現に懸かる必然があった。