ice cream castles in the sky

加藤和彦さんのこと

お式に行くような身内でもない人のことなのに、誰かを送ったあとの寂しく澄んだような独特な気持ちがあの日からずっと続いていて戸惑っている。
はじまりはあのヘンな曲。
小学生には「帰ってきたヨッパライ」は衝撃的で、でも今から思えば割合正確に音と詞を捉えられていたような気もする。
中学生でも何かの折りに歌うことができたあの誰でも知っている曲たちの記憶はずっと消える事が無い。町でばったり会った人の名前を思い出せなくなっても「でも不思議 歌えますから あの別れの歌 さいごまで」とヒューマンズーで坂庭省悟さんが歌っていたように。

きたやまおさむさんの深夜放送に夢中になって彼の考え方を追って本を読んだりしていると、彼の関係するイベントや音楽にはいつも加藤和彦さんのメロディーが寄り添っていた。
Bob Dylanなど様々な音楽に興味を持ちはじめ今でも聞き続けているものは幾つかある。それとは別に熱病的に好きになってライブに出かけて行くようなアーティストもぽつぽつ出てきた。でも覚めてしまう熱病とは違って根っこの方にはあのやさしいメロディが流れていたのかもしれない。
「それから先のことは」というアルバムがとても好き。5枚だけ残して他を捨てなければならなくなったとしたら必ず残すアルバム。でも1枚だけとなったら残さない。そこは加藤和彦らしくないと勝手に思う。
1976年発売だから高二くらいの頃かな、良く憶えていないのだけれども持ち回りでお気に入りの音楽を紹介するみたいなことをやっていて、ある日このLP盤を持って行った。男子生徒が多くて野郎クラスを免れたのはこの1年だけ。でも取り立てて何も無い存在感の薄い1年だったように思う。ただこの日のこのアルバムは特に女生徒方面から評判が良く、誰かに貸したのだった。誰だったっけ。まあ、そのあと何があるでも無く、LP盤も今でも実家のレコード棚に収まっている。今聞く音源はiTSで手に入れたものだ。
数年前のフォーク・クルセダーズの復活ライブはギリギリまで調整したのだけれども行けなかった。どんなことをしても行っておくべきだった。ライブは祭りと同じ「消えもの」のひとつ、たまたま見られればラッキーだし参加できなければ行けなかったということそのものが思いでになる。(きたやまさんの「聖なる一回性」の影響?)そういう考え方ではあるのだが、今回については激しく後悔している。
その復活期間はネット上で(単に告知のみではない)サイト展開を行っていて、そこはそれまであまり知る事が無かった加藤さんの様々な物事への考え方を読むことができる貴重な場でもあった。激しい面やクールな面を見ることができたと同時に、やはりとてつもなく優しい人なのだなあと思ったし、それはちょっと読み手を不安にさせる部分すらあったと思う。
遺された言葉の断片
「若い時にできていたことができなくなった」「もう音楽でやるべき事が無くなった」「そもそも(いま)誰も音楽を必要としていない」
加藤さんにとって音楽は必要だから作るものではなかった筈なんだと思う。音楽の中にいる事が楽しくて仕方がないっていう風情だったのは、生で何度か演奏を見ているけれども間違いなかったと思う。そういうスタンスに追い込んでしまったのが鬱病という病気のせいなのだとしたら悲しいし憎むべき病気。
自殺を病気の果てだとする見方もあるだろうけれども、それは誰にも分からない。やりたいことをやり切って、自分の尺まで自分でプロデュースして駆け上がっちゃったのだとすればそれは格好良すぎるけれども、そんな単純な事でもないのだろう。
60(正確には62)という年齢はどうなのか。気になる線ではある。自分では40は大したことを感じなかったし、これから来る50も通過点という気がしている。そもそも年齢についてと金銭についてはあまり考えずにここまで来てしまい、来てみて周りを見回すとちょっと恥ずかしい気持ちにもなったりする。恥ずかしいというか居心地悪さというか…。それでも60ってのは何かを感じるような気がしている。とりあえずそこまでは行けるのなら行ってみようかな。
さてこそ。残された人たちは這々と生きて行かなきゃならなくて。その対比というか距離感が加藤和彦なのかな、と。
–Twitterで紹介されていたけれど、これもすごくいい

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