Waltzing Matilda
ラジオの本を買って庭の上空にアンテナを張った。田舎だからできたこと。
SonyのラジオでRadio Australiaの受信に成功すると雑音の中から聞こえてきたのがこの音楽。 Waltzing Matilda, Waltzing Matilda
Who’ll come a-Waltzing Matilda, with me 今朝は何故だかこれが頭の中をぐるぐる。
AutoPost おためし
追記)
うまくいった。やったことは、
【WordPress側】
設定 > 投稿設定のリモート投稿でXML-RPCにチェック
【Posterous側】
Manage > AutopostのAdd serviceでWordPressを選び、必要項目を埋めてSave。
※最初はBlog URLにxmlrpc.phpを入れずに失敗した。
※あれ、失敗したと思っていた分が入ってきた。xmlrpc.phpは加える必要ないのかな。→必要ないみたい。(この部分更に追記)
これでPosterousをWordPress投稿用のツールとしても使える!
さて、自動でカテゴリーやタグを入れるのはどうやるんだろう。
五月晴れ
籠って種蒔き作業をしていた。芽はちらほら見え始めたような気もする。出費がかなり少なくなっていることにも気づいた。
その間、寒い日や雨の日ばかりだったような。気分にぴったりでナイスチョイス。5月に入ってみたら天気はいいし、それなりの季節の匂いもし、帳尻を合わせられたような変な気分。
でも完全に引き蘢っていた訳でもなく、ブログ的なことも書いていなかった訳ではなく。また例によって新しもの好き、Posterousというツールでちょっと遊んだりしていた。これは設定した自分のアドレスからメール送信することで様々なオプションを付けつつ自動投稿できるもの。試してみると非常に楽ちんで、もうこれをメインブログにしちゃおうかななどと(これもいつもの流れ)思ってみたり。スタイルを弄って素晴らしいサイトに仕立てている例もあり、遊びがいもありそう。
その思いが転じて、この元々のブログでもメール投稿できないかなと言う気持ちになり、調べてプラグインを入れてみたりもしたけれど、投稿が直ちに反映される訳ではなくこれじゃ意味ないなと(元々モバイル投稿用のツールだからそのプラグインが悪い訳じゃなく)。いやプラグイン自体は素晴らしいと思うし仕事か何かの折りに使ってみたいと思うもの。僕の使い方が間違っている。
考えてみれば新規メールを作って送る手間と、ブログの投稿画面をダッシュボードに開き書く手間とたいして違う訳じゃない。要は気になりつつ放置状態になっていたことへの自分自身への言い訳に過ぎなかった(イマココ)。
今非常にヤバいものを背負っていて、さて世間の連休明けにどうなるかという状態なのだが焦りの類いは無し。何とかなるだろうと思っているし、ワクワク感の方が強い。仕事の意欲も高まるというもの。
こつこつ自炊をしていると土鍋でのごはん炊きがとても上手になり(自分比)、同じ目玉焼きでも日々仕上がりが違うことに気づく。フライパンのコンディションや個々の卵の差異、気温等が関係しているのかな。それともそんな気がしているだけなのかもしれない。おかずについてはレパートリーが当然少ないので同じようなものを淡々と作り続けている。料理自体を楽しむ余裕があればそちら方面も悪くないなとは思うのだが、どうかな。時間など余裕があれば結局外食になってしまうような気もするし。
そういえば近所にローソンストア100ができてとても便利になり、自転車でスーパーへ行くことが少なくなった。一人暮らしに丁度良いものがとても安く手に入る。普通の100均店だと案外割高になってしまう商品もあるのだけれど、ここは満足。同じような理由で利用していたぱぱす(食品等の販売もしているドラッグストア)へ行く頻度も減った。
川喜田半泥子のすべて展
今日は今年2度目の川喜田半泥子展へ。1度目は正月に只券を貰った銀座松屋、今日はちゃんと自腹で横浜そごうで見てきた。
1度目がとても面白く、年初に元気が出る良い展覧会だったから、今回内容がいくらか変わるということでもう一度と決めた。
こんな場所から世間を眺められたら楽しかろうなあと思われる境地に棲むことが出来た人だと思う。今回は1度目よりもさらに作者の輪郭が浮かんで見えた。
隙だらけなのだ。
銀行の頭取まで務めた実業家としての顔の反動?好きなようにろくろを回し続け素人を通した作陶活動。もちろん一つ一つの作品自体には隙や弛みは感じられない、どころか(多作であったことを思えばさらに)完成度の高さに驚くしそれぞれの宇宙にどっぷり楽しめる。
しかし作品と作品の間にはゆったりと堂々と隙があり、圧倒的な存在感や緊張感は感じない。でも(そちらの世界には疎いから想像でしかないけれど)たとえば良い茶室というのはもしかしたらそう言う空気感の中に存在するものなのかもしれないとも思う。
これでいい、という説得力を感じるし、何よりそれらを見ていると何だかわくわくしてくる。
作品は個人蔵が多く、まとまった個展となったのは関東では18年ぶりとのこと。それも今回のような規模では初めてということだった。
「東の魯山人、西の半泥子」とも称されるらしい。個人的には圧倒的に半泥子ファンになった。
川喜田半泥子のすべて展 横浜そごうでは3月22日まで。その後山口県立萩美術館、三重県立美術館と巡回。
OSX 10.6でキーボードビューアを使う
SnowLeopard(MacOS X 10.6)は良いOSだと思う。でも不満が無いわけではない。そのひとつがキーボードビューアだ。
仕事をしていると数百のフォントを使う(もちろん一つの仕事に多数のフォントを使う訳ではない)。装飾系(記号)フォントもその一種。フォント名にOrnamentsと入っている場合もある。
これは普通の文字キーで記号や飾り罫、はたまた虎や鳥のアイコンを打てたりするもので、さすがに幾つもの装飾フォントの“A”のキーは何、“K”のキーは何と憶えきれてはいない。
そんな時に重宝したのがOS X 10.5までのキーボードビューアだった。システム環境設定>言語環境>入力メニューでキーボードビューアにチェックを入れる(10.6ではシステム環境設定>言語とテキスト>入力ソース)とメニューバー右の文字入力メニューにキーボードビューアが入り、これを選んで立ち上げれば画面上に利用中のキーボードのシミュレーションが現れる。その左下のフォントメニューからキー配列を知りたいフォントを選ぶとどのキーに何が配置されているかが実際の形として見られるという仕組み。キーボードビューア上でクリックすることでその文字(記号)を打ち込むこともできる。
この機能がSnowLeopardでは無くなってしまった。いや、キーボードビューア自体はあるのだが、フォントによるシミュレーションの機能が省かれてしまった。
困っている人は多いらしく、Apple Discussions Boardにヒントが見つかった。「キーボードビューアでフォントマッピングが表示されません」これである。
自分のメモ用に改めて書いておこうと思う。うちで稼働中のマシンは10.6か10.4。
- まず10.4のマシンの中からKeyboardViewerServer.appを探す。
- 場所は/System/Library/Components/KeyboardViewer.componentの中。KeyboardViewer.componentはパッケージになっているのでコンテキストメニューで「パッケージの内容を表示」する。
- そのContents/SharedSupport/KeyboardViewerServer.appに見つかる。(.appは拡張子を隠している場合は表示されない)
- これをコピーして10.6のマシンに持ってきてDockに入れるなりしておけば良い。僕はDockにツールを集めたフォルダを登録してあるのでその中にエイリアスを入れた。
これで準備はできた。KeyboardViewerServer.appを立ち上げると、あの便利だった頃のキーボードビューアが現れ、同じ勝手で使うことができる。
それにしてもAppleは何でこの機能を退化(僕にとってはそう思う)させてしまったのだろう。欧米でも同業者はOrnamentsフォントは使う筈だと思うのだけれども。
追記)
一般の利用者にとってキーボードビューアの役割はオプションやシフトの修飾キーを押しながら打つ特殊文字(©とか£など)を使いやすくするものであるから、装飾フォントを利用しない大部分の人には関係無いと言えば、まあそう。(OS Xには購入時の標準の状態でWebdingsという装飾フォントが搭載されていたりするんだけれど)
水
環境が変わってからペースを取り戻すのに手間取っていた。でも今度の拠点は初めての場所ではないの。10年くらい前から事務所として使っていたし、最初の数年住んでいたところに舞い戻った。
この場所と切れずに妙な縁が続いているのは水が合うということなのだと思う。ここの実際の水は不味い。まあ幾つかの条件的に難しいのだと思うけれども、十数カ所引越して来た中でワースト3に確実に入る。
少し前に浄水ポットのBRITA絡みの仕事をした。その時はここを拠点に戻すとは思ってなかったのだけれど、水に関しては気になる方なのでこういう手もあるんだなとは思っていた。
水を何とかしようと思った時に、BRITAを思い出し調べてみるとランニングコストもお得な感じ、ネット上で悪くないと言っていただいたことも背中を押してもらうことになり結局購入して正解だった。
今ではあの不味かった蛇口からの水を1日1杯は(濾過して)そのまま飲み、何杯も美味しいコーヒーを飲み、土鍋「ほんわかふぇ」をつかった炊飯に使えば何とも幸せな食事も味わえることになった。
人の暮らしに水は必須で、だから美味しければ嬉しい。この先どれだけの時間生きられるのか、何度食事が出来るのかは判らないし。
子供の頃は終わりが来ることなんて考えなかった。現在に至っても年齢について考えたことはほとんどない。ただ、終わりが来ることには体が気がつき始めた。ごく自然なこととして終わりは来るということや、そこに辻褄を合わせることを無意識の向こうで計算し始めているらしい。
人体の大部分は水もしくはそれに関連する成分で出来ている。人が高見から飛ぶとき、着地すればぴしゃんと水風船か水瓜がはじけるような感じになるそうな。
テレビでオリンピックを見ているとアスリートたちが鍛え上げたほんとうに美しい肉体を見せてくれる。骨格やその他の成分を想像する。体に出入りする水や栄養のサークル(連鎖)を思い描く。それは彼らの個体で完結はしない。周りと繋がり世界の有機物や無機物に繋がっている。
自分の中で水とか電気は騒ぎ続けている。多分それは終わる寸前まで続く。続くことと終わること、そういう揺れはごく若い頃から暖かく大切に思っていた。お仕舞いの周辺の庭で遊んでいた記憶が遠くに確実にある。
何だかつまらないな。早飲みしすぎた酒のせいかも。(ことえりは聖火もと変換。オリンピックタイムらしいじゃん)