ダイエット?
…てゆーつもりはなかったのだけれど。
はじまりは、仕事場も自宅もずっと一緒だったのを本格的に分けてみた今年の始め。何十年ぶりかの通勤!自宅は割合坂の多い街で、駅への行き帰りの徒歩7分だけで息は切れ動悸は跳ね上がる。ヤバいんじゃね?と頭の中の誰かが囁き、ともあれ、体型とか体重とかはどーでもいいから人としてのバランスのとれた身体に戻そうと食事等に気を使うようになった。
以前にもたまにそんな気分になったことがあったのだけれども、三日坊主的フェードアウトが常。原因を考えてみると明確で判りやすい目安を想定しなかったことだと思い当たったんだ。何となく食事の量を減らしてみようかなと思っても、いつの間にか元に戻ってしまう。
Microsoft
もともと仕事の道具としてのコンピュータには興味がなかったので、1995年のWindows95の騒ぎはニュースで知っていたけれども自分とは関係のないことだと思っていた。もし仕事に関係してくるのならMacintoshっていうモノだとも何となくは聞こえて来ていたのかな。だからWindowsのことはなおさら。
Macを使いはじめた友だちの部屋に行って、こりゃヤバいなと思ったのも多分95年。その年明けあたりに思い切って一式導入したんだっけ。そういうわけで周りはMacユーザ。誇張でもなんでもなく、マイクロソフトとかWindowsとかのことは無用、無関心だった。(今でも周りのほとんどはMac使いなのだから、環境的には一風変わったというか幸せなというか)
マイクロソフトのことを知ったのはMacのソフトを作っている会社のひとつだったから。ワードとかエクセルとか、ぼくの仕事には直接関係なかったけれども、良いソフトだと言う評判。
今では世界のパソコンの9割でWindows OSが走っていることを知っているし、ウエブの仕事を始めてからは当然無視できない環境となっている。いくつか前のエントリにも書いた通りWindowsデビューも果たした。
マイクロソフトという会社には無関心だったのだけれども、ある日地下鉄の駅で見かけたポスターとその後テレビでも流れはじめたCMは素晴らしく、好印象を持った。それが、「私たちには見えます…」ではじまる今年始めに打たれたマイクロソフトのコーポレートブランド広告キャンペーン。手書きの白い線と音楽のリズム、それから件のコピー。全体の色調と統一感。夢と成功(そう、やっぱり「成功」のイメージは入っているんだな。そこがマイクロソフトらしいといえばらしいのかも。でもこの広告では上手に嫌み無く織り込んでいる)。広告の力を感じた。ぼくの中での企業イメージも跳ね上がったしね。このページ無くならないで欲しいなあ。今でも時々見ているんだ。WMVって保存できないのかしらん。あの「1984」の昔から、広告だけをとってみるとAppleの大勝という感は拭えないけれども、このキャンペーンは悪くなかった。
実際問題別にMacでなくてもよかったんだ。仕事が楽しく効率的にできるのなら。ただ2005年の今現在でもそれはMacでしか成し遂げられないのだけれども。だからまだまだMacといっしょ。Windowsという道具も手に入れたけれども役割分担は明確なのだし、それでいいんだな。
デッドヒート
今年もポストシーズンが近づいて来た。もちろん一年中こつこつと追いつづけているのだけれども、この時期の興奮度は格別。
今年のボストンはチームの要に故障者が続出して万全な状態だったことはないかもしれない。それでも現在リーグ首位に立っているのは何よりチームとしてのタフネスさと、肝心な場面での打線の奮起に他ならない。
ただ今年のチーム状態を思えば、去年のようなことは起こらないかもしれないと数パーセントの覚悟は決めている。ニューヨークがあの戦力を持ちながら(投手陣の補強がうまく行かなかったにしろ)もたついてくれていたことも大きい。しかし最後には向こうが鼻差でゴールを切るんじゃないかとも思っている。
もちろん全てがうまく行けばこんなに嬉しいことは無い。シリングが徐々に良くなって来ているとか(今日も好投)、今年のドラフト一位投手クレイグ・ハンセンが見事なデビューを果たしてくれたとか、好材料もいくつかある。でも何はともあれ最後までレッドソックスらしく諦めない試合を続けてくれれば今年は満足なのだ。
野球中継考
満月
夕べ腹が減り何か食事と、ついでに酒も少々と思い仕事場近くのコンビニへ向かう。交差点の手前少し前を歩いていたご家族と思われる3人連れのお一人おばあさんがおもむろに立ち止まり、斜め上を見上げて手を併せた。つられて見上げると中秋の名月。永遠のようにウサギが餅をつき続けている。ちょっと素敵な場面だった。
ふと気になったことがある。都内に住み始めて大分たつけれどもときどき気になっていたこと。ふと人が路上で立ち止まり手を併せる風景というのに割合よく出くわす。例えば神社なら神社の手前の路上から、あるいは参道の遠く手前から鳥居を眺め、しばし手を併せまた通り過ぎる。見ている方も少しだけ心が洗われるような気がして清々しい風景ではある。もちろん折々にはきちんと拝殿までお参りしておられるのだろうけれども、それには及ばない日々の簡単な報告のようなものをされているのかなと思う。
田舎だと神社とかお寺さんは子供にとっては遊び場だし、大人にとっても普通の生活エリアの一部だったりするんだ。うちは割合有名でもある神社を中心に広がった町だったから、参道の途中で旅館を営んでいたり、土産物屋をやっている家の子供と同級生なんていうことも多々あった。
都会の人から見る神社仏閣っていうのは、そういうものに対する敬虔な気持ちというのは同じでも、さらにもう一段敷居の高いというかきちんとしなければならない対象なのかなと思った。それから江戸っ子的なせっかちさってのもあるのかしらん。お月さんにしても、子供の頃は団子とススキを供えた縁側から見上げ、おばあちゃんと手を併せたりもしたけれども、それはそういうものだった。ふいにそういう気持ちになって路上で立ち止まってどうこうということはなかったし、そういう方を見たこともなかったので、所変われば的な思いを持ったのだろう。
あ、それから肝心な点としては、こんなに大勢の人が昼夜を問わず出歩いていたりはしないな、田舎では。